2014年4月28日月曜日

2014年度も忙しいらしいです。

ご無沙汰しています、武藤です。

最近また更新が滞っていましたが、(かろうじて)生きています。
今年は少し楽ができると密かに期待していたのに、蓋を開けてみれば昨年度とさして変わらない過密スケジュール…これはなかなか精神的にクるものがあります。毎日ボロ雑巾のようになっていますがここまではそれなりに頑張れていると思います。

結局、ここまで過密なスケジュールになっているのは、卒業後の進路をどうするかという葛藤に対して一つの暫定的な結論を付けたせいでした。いつかの記事で教職課程を続けるべきか辞めるべきかで悩んでいると書きましたが、紆余曲折あって、結局教職課程を継続することになってしまいまして。
理由としてはいくつかありますが、一番の決め手は「もったいなかった」からでしょうか。私は入学時点から中学・高校国語一種免許状の取得を目標に教職課程を履修していました。ここまでの2年間は、自分の所属学科の講義を受けながら、同時に国文学方面の授業なども聴講しに行っていたりしていましたが、その結果、2年次終了時点で「教育職員免許法」において「教科に関する科目」として位置づけられている授業の単位をそれなりに取得することができ、この時点で中学国語一種免許状の交付に必要な単位数28単位を満たしていることが判明しました。
高校国語一種免許状の取得にはこれに8単位を加えた合計36単位分の「教科に関する科目」を履修する必要がありますが、この時点で残り8単位ならば今年度中に余裕で満たすだろうという判断のもと、今回の継続の決断を下しました。(実は、これに関しては私の様々な「誤算」があり、結論から述べると今年度に所定の「教科に関する科目」の単位を36単位分取得することは不可能となってしまいましたが、それはまた別の機会にでも書きます。)

ちなみにですが、私はおそらく教育職員免許状を取得しても、教職には就かないと思います。何より私に教員としての適性がないことはこれまでの生活を振り返ってみても明らかですし、それならばもう少し「時間をかけて」「別な進路」を模索していきたい、というのが今の私の「進路希望」です。焦りや悩みは絶えませんが、時間の許す限り精一杯悩みながらやっていこうと思います。なにせ社会に出たら忙しくてこんなことで悩む時間もきっとないでしょうからね。これぞ「モラトリアム」ならではの過ごし方だと思います。


話は変わって。今年度のはじめに、私のいる学科でもついに「ゼミ」の振り分けがありました。ここでいう「ゼミ」とは、正式には「教育学演習」と呼ばれる一連のカリキュラムの3年次配当分の演習型授業の通称ではありますが、この3年次の演習はこれまでの「教育学演習」とは異なり、(様々な制約はあるものの、)好きな教員のものをある程度自由に履修できるようなシステムになっているので、どの教員の演習を履修するか、あるいはどの教員の演習を履修できるか(選考があり、誰しもが希望の演習に振り分けられるわけではありません。)が、4月初旬ごろの私の一番の関心事でした。

一応の希望調査が行われて、上限人数超過の場合などは人数調整が行われる決まりになっていたので、その人数調整で第2希望のゼミになってしまわないか心配でしたが、かろうじて第1希望ゼミに入ることが出来ました。このゼミは、教育社会学の分野で著名な業績を残している某教授が担当するゼミです(率直に言って、どうしてこの教授がこの大学にいるのか本当に分かりません…それくらいすごい人です)。教育社会学は、今私が関心を抱いている分野なので、この教授の下でしっかりと学び、自らも積極的に研究していくことで、様々な知識を身につけていきたいと思います。


また、3年生になって、思わぬ場所からお呼びがかかるという貴重な体験もできました。
今年度から、昨年度まで在籍していた某ボランティアサークルに見切りをつけて、読書会と呼ばれる学術系サークルに正式に在籍することとなった私ですが、そのサークルの顧問をしてくださっている某教授から私含む読書会の運営陣に対してお誘いがありまして…大学院の授業に(非公式ながら)参加できることになりました。

その授業で扱われている分野は、いわゆる「教育哲学」です。将来的に教育社会学で卒論を書こうと考えている私にとってはアウェーともいえる授業で、正直毎回ついていくのに精一杯ですが、この「大学院」という教育機関、またはその機関に所属する「大学院生」の水準というものを「学部生」という視点から見つめることは、きっとこれからの私にとって何か一定以上の価値があるものと信じて頑張っています。

もちろん、現時点で教育社会学で卒論を書きたいと思っているからといって、これからの学生生活の中で教育社会学関係の研究だけをしていればいいというわけでは決してないと思います。文学や哲学から社会学、心理学、果ては医学方面にまで、様々な分野と相互的な関係性を持っているのが「教育学」という学問であると私は考えているので、そのことを意識すると、どうしても「教育学は○○の分野だけやっていればいい」と素朴に言い切るのは危険であるように感じてしまいます。今回このようなアウェー状態の授業にも精力的に取り組もうという思いに至った背景には、こういった考えもありました。


そんなこんなで、予想とは裏腹に随分と忙しくなってしまった武藤の2014年シーズンですが、今年度も力の限り頑張って行きたいと思います。こんな生活のため、なかなか毎日ブログを更新する時間というものがとれないですが、また何か書きたくなったとき(書けそうな余裕があるとき)に、折にふれて書いていきたいと思います。


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2014年4月1日火曜日

3年生になりました。

ご無沙汰してます、武藤です。

最近はあまり書くべき話題もなかったのでしばらく更新が滞りました。昨日から大学に行ってガイダンスなどを受けていますが、おそらく本格的に講義などが始まると、また淡々としたマンネリな日常が待っていることでしょう。そのときにこのブログをまめに更新できるかどうかは定かではありませんが、書くべきことがあるかぎりは書いていきたいと思います。


さて、2014年度に入り、私も無事に学部3年生に進級できました。2013年度後期の成績がなかなか公開されず随分と焦らされましたが、今朝確認したところそれなりの成績を収めることができていたのでまずは良かったです。やはり昨年度まで所属していたサークル関連の仕事が随分と重荷になっていたようです。昨年度まではボランティアの準備や会議、毎週の定例的な活動などに時間を取られがちでしたが、今年度からは毎週水曜日のみの活動になり、物理的・心理的負担もかなり軽減されそうです。

しかし、サークル面での不安・不満が解消された今でも、まだ私には考えなければならないことがあって、それ故にまだ全力で大学での研究・勉強に取り組むことができていないという現状もあります。

3年生になりまず考えなければならないのは「就職活動」のことだと思います。人によっては入学前から明確に卒業後の進路を定めていて、そのビジョンに則って入学する大学を決めたという方も多いかと思いますが、流れ流れてこの大学にたどり着いた私には始めからそのようなビジョンなどありませんでしたし、今ですらはっきりとした考えがありません。

私はこの2年間、ただただ惰性で教職課程を履修していましたが、今となっては私が教員として教壇に立っている姿が全くもって想像できません。その一方で、私が試験を受けて公務員としての職務を全うしている姿も思い浮かびませんし、まして一般企業で仕事をしている姿など考えることすらままなりません。

しかし、私の進路が明確に定められているか否かに関わらず、就職活動の解禁日は刻一刻と迫ってきているのも事実であり…。取り急ぎ、教職課程に残るかどうかの決断を可及的速やかにしなければならない旨を昨日のガイダンスで通知され…正直なところどうしようかと頭を抱えてしまっている現状です。
私自身、現時点で「教員」という職業を全うすることができるだけの資質や能力がなく、これからも身につく見込みがないことは明確に自覚しているので教職それ自体にはこだわりも未練もないですが、今ここで教職課程から離脱してしまうと、これまでの2年間の大部分が無駄になってしまうと考えるとどうにも惜しい気がしてしまいます。とりあえず、2015年度に行う予定の「教育実習」に参加するならば、今年度の5月上旬までにはその実習(予定)校からの内諾を得なければならないので、教職課程に残るかどうかの決断は遅くとも5月上旬までにしなければなりません。

そんなこんなで、無事に3年生を迎え色々な悩みが生じる今日このごろですが、もう少し色々考えて最善の選択をしたいところですね。時間が許す限り悩むことにします。

2014年3月24日月曜日

私の嫌いなCMについて その1:日清食品「SURVIVE!」。

こんばんは、武藤です。

昨日、J.S.ミル,竹内一誠訳『大学教育について』(岩波文庫,2011年)を読み終えました。一通り読みましたが、「言わんとしていることはわかるけど…」みたいな、そんな感じでしたね。これに関してはまた追々まとめます。


その話とは全然関係はないですが、最近、テレビで流れているCMの一部が非常に悪ふざけがすぎるように感じるのは私だけでしょうか。普段はあまりゴールデンタイムの時間帯の番組は観ないですが、たまに観たときなどにそういったCMが目につくと、正直イラッとします。

例えば、日清食品のこのCM。 
カップヌードル「SURVIVE! 就職氷河期 篇」30秒
http://www.nissinfoods.co.jp/product/cm/show_cm.html?cm_id=436


今考えている限り、このCMは2013年度で一番「ひどい」CMだと私は考えています。このCMは、今この現代社会で就職先が見つからず苦しむ数多の学生をバカにしている、極めて不謹慎な内容ではないでしょうか。

いわゆる「就職氷河期」と呼ばれ、希望の職種・企業などに就職することが非常に難しくなっている昨今の就職事情ですが、日本の社会をその「就職氷河期」に突入させたのは一体どこの誰でしたか。我々「氷河期世代」よりも前に就職した世代の人々がヘタを打ったから、今の現状があるのではないですか。
バブル期にすんなりと就職をして自分たちはのうのうと楽して生きてきたクセに、いざバブル崩壊後に景気が悪くなれば「就職氷河期だ就職氷河期だ!」などと騒ぎたて、今ここで苦しむ我々若者を絶対安全圏からふんぞり返って見下している。あまつさえ「イマドキの若者は努力が足りない!」などとのたまい、自らの(偶然と幸運だけで構成された)成功体験と現状の若者の姿を比較して悦に浸り、理不尽極まりない恫喝を交えた「圧迫面接」をして氷河期世代をいたぶり楽しむ…。

このCMは、まさにそういった世代の「醜い」心性が滲み出ているようです。このCMはそういった「人間の醜さ」が凝縮された史上まれに見る「駄作」です。少なくとも私はそう思います。

何が一番救えないかといえば、当の日清食品がこの最低なCMについて


"これからの時代を生きていく若者たちに、「さまざまな困難に立ち向かい、乗り越えてほしい」という思いを込めた「SURVIVE!」というメッセージ。
圧倒的なスケールの映像と共感をよぶ台詞で、カップヌードルらしい、楽しく、笑えて、熱くなるエンターテイメントなCMを作っていきます。 "(公式HPより)



などと述べているところです。口の悪い書き方ですが「どの口がそれを言うんだ」と製作者を問い詰めたいですね。
まず第一に、一文目の「さまざまな困難に立ち向かい、乗り越えてほしい」という文言が気に入りません。そもそも我々より前の世代が致命的なミスをしさえしなければ、今この現状はなかったのではありませんか。私は経済学の専攻ではないので詳細を知るわけではありませんし、その分野について何か専門的なことを提示できるわけではありませんが、バブル崩壊後に訪れた経済不況に備えてリスクヘッジをする余地はなかったのですか。

あなた方は自らが好き勝手にやった結果残った後の尻拭いを押し付けた相手に、「さまざまな困難に立ち向かい、乗り越えてほしい」などと平気で言う。あなた方に「恥」という概念はないのですか。「良心の呵責」はないのですか。自分たちは安全圏で何の苦労もなく生きているクセに、何が「SURVIVE!」ですか。ふざけるのも大概にして欲しいです。

また、二文目も最悪の文面です。にわかには信じがたいことですが、日清食品の社員一同はこのCMを「楽しく、笑えて、熱くなるエンターテイメント」だと考えているようです。これを楽しいなどと形容できるその感性を、私は疑わずにはいられません。実に「醜い」感性だと思います。

他にも書きたいことはいくつかありますが、今回はとりあえずこの辺で。
少なくとも今言えることは、今後何があっても日清食品および関連企業に就職することはこれでなくなったということです。もっとも、私は果たして就職活動ができるのかすら定かではありませんが…。その辺りは私の努力次第なところもあるので、今は自分のするべきことをしっかり頑張ります。
また、現状、他にも2つほど「嫌いなCM」があってそちらにも文句を言いたいので、それらにはまた後日改めて文句をつけていきたいと思います。



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2014年3月22日土曜日

J.S.ミル,竹内一誠訳『大学教育について』内容まとめ。

こんばんは、武藤です。

やはり実家は落ち着きます。落ち着きすぎて今ひとつ勉強が捗りませんが、これに関しては東京にいてもだいたい同じなので、特に環境の違いというわけでもなさそうです。とりあえず、春休みも残り僅かですが、ある程度英語の勉強だけは継続して続けていきたいですね。英語に関してはどう転んでも今後必要になるスキルですが、これまでの学校生活の中でもそれほど得意でもなかったこの科目をいまさら独学で始めてみても、正直な所イマイチ面白さが感じられず…ちょっとだけ辛いですがそうも言っていられません。やるだけのことはやりましょう。

さて、昨日あたりからぼちぼちJ.S.ミル,竹内一誠訳『大学教育について』(岩波文庫,2011年)を読み進めています。文庫自体は180ページほどしかない本ですが、読んで見た限りでは、J.S.ミルの大学教育に関する視点・問題意識がしっかりと述べられているテキストだと思いました。私はまだ「2 文学教育」の章を読み終えたところですが、ここまでの内容で印象に残った点などを個人的にまとめてみようと思います。

まず第一にJ.S.ミルが問題意識を持っていた点として、大学という機関の「役割」という論点を挙げられると思います。J.S.ミルは、大学という機関について、「職業教育の場」(J.S.Mill,竹内訳 2011:12)ではないとする立場を明確にします。J.S.ミルによれば、大学という教育機関は確かに専門的な知識の教授を行う場ではありますが、それら専門的な知識は、何かしらの職業に就いて生計を立てるためのツールであるとは考えません。J.S.ミルは、そういった専門的な知識を教授することを通じて、「有能で教養ある人間を育成する」(J.S.Mill,竹内訳 2011:12)ことを目的として想定します。

もちろん、例えば現代日本の大学における医学部での教授内容は、一般的に「医者」と呼ばれる職業において必要になる知識と一定の共通性があり、法学部での教授内容は、一般的に「弁護士」と呼ばれる職業などにおいて必要になる知識と共通性を持つでしょう。しかし、だからと言ってそれらの知識をただ職業のためのツールとして使用することに対してJ.S.ミルは否定的な立場を示しました。
この点においてJ.S.ミルは、大学において教授される専門的な知識を、正しい方向へ利用し正しい方向へ深化させていくことができる能力を獲得するためのツールとして考えます。この能力をJ.S.ミルは「一般教養(general culture)」と表現しました。つまり、大学で得た知識をそのまま利用しているだけの医者や弁護士はJ.S.ミルから言わせれば「無能」であって、大学で得た知識に対して自らの考え・発想をもってより深く考察し、その真理に近づこうとする姿勢を兼ね備えた医者や弁護士こそ「有能」であると考えます。そしてそういった「哲学的」な姿勢を身に付けるということこそが、大学という機関の「役割」であると考えました。

しかし、もし大学にそういった役割があるならば、大学という機関で教授されるべき知識とはどういったものがあるのかという大学教育の「領域」に関する問いが生じます。その役割を十分に果たそうと考えたとき、あまりにも初歩的なことばかり教授していたのでは、学生は理想的な「哲学的な姿勢」を獲得する前に卒業を迎えてしまいそうです。J.S.ミルとしても、大学まで進学してきた学生に対してあまりにも初歩的な内容を教授することは無意味であると考えていたようです。

そこでJ.S.ミルは、大学において学生が学ぶべきことは「知識の体系化」(J.S.Mill,竹内訳 2011:15)であると考えました。つまり、大学での教育により得る様々な領域、分野にわたる知識をそれぞれ相互に関連付けて、必要な物を取捨選択しながら自らの持つ知識全体を見渡す見取り図を作り上げるという営みこそ、学生が大学において為すべきことであるとJ.S.ミルは考えました。その意味でJ.S.ミルは大学を知識の教授の場ではなく「知識の哲学を教える機関」(J.S.Mill,竹内訳 2011:16)として想定していると私は考えました。しかし、大学をそういった位置づけで考える場合に関して、またひとつの問題が生じます。つまり、「知識の哲学」を教授する前段階として、教授される側の学生がそれに見合うだけの「知識」を持っていることが確認できなければ教授する意味がないのではないかという問題があります。その点においてJ.S.ミルは少なくともスコットランドの大学システムは、そういった点に着目する限り優秀なシステムを持っていると述べています。すなわち、スコットランドのすべての大学は「他の学校の不足を補うためのハイ・スクール〔上級中学校〕でもある」(J.S.Mill,竹内訳 2011:17)という特徴に他の国家に見られない優位性があると考えたようです。

とりあえず今回はここまでで。続きはまた今度書きます。


・参考文献
J.S.Mill『大学教育について』(竹内一誠訳,岩波文庫,2011年).


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2014年3月21日金曜日

私が出会った「常識のない大人」の話。

こんばんは、武藤です。

昨日は帰省してからいろいろなことがあって更新ができませんでした。北海道は相変わらず寒いですが、先月と比べると寒さも緩みそれなりに過ごしやすいです。10日ほどの滞在ですが、新年度に向けてすることはたくさんあるので、しっかり目的をもって頑張りたいと思います。


さて、話は変わりますが、昨日の移動中にちょっと嫌な気持ちになる出来事がありました。
私はいつも新千歳空港から地元の街までは電車を利用します。今回はその電車の中でちょっとにわかには信じられない光景を見てしまいました。

電車の中で座席に座っている40代ほどの女性が、満員の電車の中で足元に置いてあったゲージから小型犬を出して来て、隣のシートに座らせたのです。

率直に言わせてもらえば、その行動は全く理解できませんでした。百歩譲って「動物の社内持ち込み」 それ自体は条件付きで認められているので良いとしても、その条件を破ってまでペットを隣に座らせる行為そのものに何かしらの疑問を抱くことはなかったのでしょうか。ちなみに、一般的に言って電車内において「動物の社内持ち込み」が認められるための条件は、「その動物を一定サイズのゲージに入れて、絶対に取り出さないこと」です。

私としてはそんな堂々と違法行為するさまを見せつけられるのはとても嫌なので、タイミングを見て自ら気づかないようなら怒鳴りに行くつもりでいましたが、新千歳空港駅から札幌駅を通過しても改善の余地は見られません。それどころか途中から乗り合いになった乗客ですら「かわいいわね~」などと話しているのが見えて、これはもしかすると私のほうが間違っていて、本当はペットもシートに座らせていいことになっているのではないかと疑いすらしてしまいました。

さすがにそんなモヤモヤした気持ちで実家の最寄り駅まで行くのは…と思い、思い切ってJRの乗務員に確認してみました。私が「アレ(問題の乗客を指さして)、ルール的にいいんですか?」と聞いてみても、「いや~、本来ならダメなんですけどね~」と歯切れの悪い返事。ここで私の不満は頂点に達しました。
「ダメならさっさと注意しにいけよ!なに素通りしてるんだ!」 と怒鳴りつけ、注意させに行きましたが、冷静に考えてもここで乗務員を怒鳴りつける意味はありませんでしたね。結局しぶしぶ注意しに行きましたが、乗務員からやんわりと注意された彼女からすれば「なんだか頭のおかしい若者に注意されて気分が悪い」くらいにしか思われなかっただろうなと反省しました。

ここは多少事を荒らげてでも、私が直接怒鳴りにいったほうが良かったと思いました。私のような「若造」に大声で怒鳴られることは、普通の人間にとってはこれ以上ない「屈辱」でしょう。そういった屈辱が反省に変われば「指導」が「教育的成果」へと転化したということが出来そうですが、乗務員から「やんわり」注意されたのではその指導による教育的成果も芳しいものにはならなさそうです。

もちろん、今回の一件に関しては私は一切の物理的損害を受けていませんが、先にも書きましたように「目の前で堂々と違法行為を見せつけられる」のはとても気分が悪くて今回はこのような行動をとりました。
実害を被っているわけでもないのに怒り狂って乗務員を怒鳴りつける私は確かに「頭のおかしい若者」だったかもしれません。しかし、「いい年した大人」が、その程度の常識もなく、あまつさえ私のような一介の「若造」に注意をされてしまうこの現状はあまりにもおかしい状況だったと思いました。



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2014年3月19日水曜日

伊豆下田旅行ダイジェスト。

こんばんは、武藤です。

つい先程、2泊3日の伊豆下田旅行から戻ってきました。短い期間でしたが、色々なところに行くことができてとても良かったです。

今日はこれ以外に特に書くべきことがないので、以下に旅行中に取った写真を貼りつけて旅行の様子をダイジェスト形式でまとめていきます。





行きの移動には特急「踊り子号」を利用しました。普通列車で行くとそれなりに長い時間がかかりますが、この特急列車を利用することで東京-修善寺までおよそ2時間半ほどで行けました。座席は指定席で無理なく移動することが出来ましたが、今回たまたま予約した座席の近くに、我々の「同業者」の集団がたくさんいてそれなりに大声で騒いでいたのでちょっとだけイラッとしました。旅行で楽しい気分になるのは分かりますし声を出すなとは言いませんが、もう少しTPOをわきまえた行動を期待したかったです。




修善寺駅に着いてからは、 タクシーでサイクルスポーツセンターに行きました。
平日の昼間ということもあり、センター内は閑散としていて少し寂しい雰囲気でしたが、逆に我々の貸し切り状態だと思って思い切り楽しみました。スポーツ自転車を借りて山道をサイクリングしたり、電動自転車で友人(偶然この写真に写り込んでしまっている彼です。後ろ姿だけだったので加工せずそのまま貼りつけました)とデッドヒートを繰り広げたりしてはしゃぎ回った結果、見事に両足が筋肉痛になりました。




サイクルスポーツセンター内の河津桜。聞くところによるとピークはもう過ぎてしまっているとのことですが、ここの河津桜はまだ咲いていました。濃いピンク色でキレイでした。来年以降はシーズン中に見に来たいと思いました。






サイクルスポーツセンターで散々遊んだ後は、宿への通り道に通りがかった「浄蓮の滝」を見てきました。自転車で疲れきった脚には280段あまりの石段はあまりにも酷な道のりでしたが、苦労して見た浄蓮の滝は大迫力でした。浄蓮の滝への道の途中ではワサビが群生しているところもあり、この水の水質が良いことを示しているようでした。

浄蓮の滝を見た後はそのまま旅館にチェックインして、下田市内で晩ごはんを食べて初日は終了しました。



2日目は朝から下田市内をあてもなくそぞろ歩きながら観光をしてきました。写真はそのスタート地点の香煎通りです。




2日目の昼食は道の駅「開国下田みなと」内にあるお店で「下田バーガー」というハンバーガーを食べました。下田名物の金目鯛を使ったハンバーガーで、ボリュームもありとても美味しかったです。




食後に近くのおみやげ屋で買った伊豆ニューサマーサイダー。ニューサマーオレンジという品種のオレンジを使ったサイダーで、さっぱりしつつもしっかりした甘みがありこちらも美味しかったです。

 



 




昼食後は下田城山公園を散策しながら下田海中水族館に行きました。道中の展望台からは下田市内や寝姿山が一望できて、なかなかの絶景でした。



 水族館では、ちょうどイルカショーが始まるところだったのでまずはショーを見学。水族館は久しぶりに来ましたがトレーナーとイルカの息の合ったコンビネーションはとても見ごたえがありました。写真はトレーナーがイルカの上にのってサーフィンをしているところです。






ショーを観終わったあとは、順路に沿って進みながら様々な動物を見ました。たくさんの種類のクラゲをみることができるエリアでは、クラゲのフワフワとした動きが醸し出す不思議なムードで心が癒やされました。
2日目はこの後了仙寺や下田開国博物館などを見学して、晩ごはんを食べて終了しました。




そして最終日の今日は、爪木崎まで足を伸ばして一足早く海岸で遊んできました。
さすがに海には入れませんが、海水はとてもきれいで、今度は是非夏になってから来たいなと思いました。
その後は2日目同様「開国下田みなと」で昼食、おみやげなどを各自購入してから、15時の普通列車でゆっくりと東京に戻りました。このあたりは疲れて寝ていたのであまり写真の記録がありませんでしたが、伊豆急下田駅から熱海駅へ向かう電車内から見た伊豆多賀駅付近の景色が絶景だったことが特に印象に残りました。


以上が今回の旅行の大まかなルートです。玉泉寺や観音温泉など時間の関係上行けなかったところはたくさんありますが、たった一回の旅行で全てを網羅できるほど狭い場所でもないので、今回行くことができなかったところはまた今度行ってみたいと思いました。


では、今回はこの辺で。旅行から戻ってきた直後なのでゆっくり休みたいところですが、明日は昼の飛行機で北海道の故郷に帰省する予定になっているのでそろそろ寝ます。寝坊して飛行機に乗り遅れてしまわないかとても心配です。頑張って起きます。



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2014年3月16日日曜日

吉祥寺に遊びに行ってきました。

こんばんは、武藤です。

今日は翌日に控えている伊豆下田旅行の準備などで外出したので、準備のついでに吉祥寺まで足を伸ばして買い物をしてきました。


吉祥寺まで行って私が行くところといえば「ジュンク堂書店 吉祥寺店」くらいのものですが、この間はせっかく行ったのにもかかわらず買おうと思っていた本を買いそびれるという致命的なミスをしてしまっていたので改めて行ってきました。

さすがに今日は日曜日ということもあり、非常に混雑していていつものようにゆっくりと見て回ることはできませんでしたが、ひとまず先日買いそびれていた本は無事手に入りました。





今回購入したのは、土井隆義『友だち地獄 ─「空気を読む」世代のサバイバル』(ちくま新書,2008年)と、戸田山和久『哲学入門』(ちくま新書,2014年)の二冊です。

『友だち地獄』に関しては、先日の投稿で触れたのにもかかわらず未読だった文献なので、この機会に読み終えて再度この問題を考えてみたいと思いました。

『哲学入門』は先日出たばかりの新書です。実は私は著者の戸田山和久氏とは一度某所にてお会いしていて、そのときに聴いた科学哲学に関する話が難解ながらも面白く感じたので『科学哲学の冒険 ─サイエンスの目的と方法を探る』(NHKブックス,2005年)などを読んでみたりもしていました。先日、その戸田山氏が新たに入門的な書籍を出版したことを大学近くの書店で知ったので、今回は購入する予定ではなかったものの衝動買いをしてみた次第です。


元々、科学哲学は私の専門分野とは少し遠いところに位置する分野ですが、専門的なことまでは把握できずとも、私の理解が及ぶところまでは理解しておきたいと思っています。ただ、「モードゥス・ポネンス」のような論理学的な部分の説明で目を回してしまう私にとってはなかなか一筋縄ではいかないところもあるのは事実ですが…現時点では科学哲学という分野は、特に研究材料として必要なわけでもないので、自分のペースでゆっくりと理解していくスタンスをとりながら学んでいます。

今回購入した『哲学入門』に関しても、同様のスタンスを取るつもりですが…




新書なのにこれだけのページ数があり(計446ページ)、読み終えるまでにはそれなりの時間がかかりそうです。焦って読んでも仕方がないので、例によってゆっくり読み進めていこうと思います。

では、明日は早朝から伊豆下田へ向けて移動するので今日はそろそろ寝ます。
3日間という短い期間ですが、しっかり遊んでリフレッシュしてきたいと思います。

なお、明日から3日間はおそらくブログの更新はできないかと思いますがご了承ください。


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2014年3月15日土曜日

サークルを辞める準備が全て終わりました。

こんばんは、武藤です。

昨日は、今年度最後のボランティアでした。来年度からはサークルを移籍して別団体の所属になるため今回が実質的に最後の活動でしたが、別段何が起こるでもなく無事に終了しました。

今年度は主に金曜日レギュラーとして、ある年代の子どもたちの卓球の練習のアシスタントを主に担当していましたが、これといって特に卓球の経験がない私は、まずは一通りラリーができるようになる必要があり、最初はとても大変でした。

最初の内は毎回辛いなと思いながら補助をしていましたが、何をやらせても「普通」な私も夏頃になるとかなり動きがこなれてきて、だんだんと余裕が生まれてきましたね。内容が内容なだけにあまり多くを書けませんが、とても貴重な経験を数多くさせて頂けました。


また、今年度の活動が終了したことで、めでたく私の元サークルでの残務が全て終わりました。
今、サークルは「追い出しコンパ」と称して卒業生と共に三浦海岸の方へ合宿へ行っているところでしょうが、「裏切り者」の私にはその合宿に行く資格も理由も意味も義理もないので、今はのんびり「アド街」を観ながらこの記事を書いています。私も内心驚いていますが、今まさに(3/15 21:28現在)放送中の「アド街」で扱われている「伊豆下田」には17日から友人と旅行に行く予定になっているので、その予習を兼ねて観ています。2泊3日のちょっとした小旅行ですが、こういった旅行ができるのもモラトリアム期にある大学生の特権ですね。今から楽しみです。


それでは、今日は特に書くこともないので今日はこの辺で失礼します。



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2014年3月13日木曜日

「友だち地獄」を感じました。

こんばんは、武藤です。

今日は雨の中大学と自室を行ったり来たりで大変な一日でした。本来であれば1往復で事足りた用事でしたが、最近は物忘れが激しく、大学に到着してから忘れ物に気づき取りに戻るという無駄な行動をしてしまったために余計な費用がかかってしまいました。今は毎日大学に行くこともないので定期は買っておらず、この時期に大学へ行くと毎回交通費がかかってしまい、とても損をした気分です。


さて、今日は昨日の投稿の続きです。
この間新宿で友人の誕生日プレゼントを購入した後、私は大きな買い物をしてしまいました。






ニンテンドー3DS本体(中古)と、ポケットモンスターXです。
実は前々から私の友人の一人に積極的な勧誘を受けていて、その都度私はお茶を濁したような応答で切り抜けていたのですが、今回新宿の某古本屋にてそこそこの安さで置いていたのを友人が見つけてしまい、熱心なマーケティングに負けて購入する運びとなってしまいました。

この書き方からも分かるかと思いますが、今回のこの買い物は私個人としては非常に不本意です。

もちろん、このゲームがどうこうというわけではありません。私はプロフィール欄にわざわざ書いておく程度にはゲームという娯楽が好きですし、実際に、ここまでの人生の決して少なくない部分をゲームに費やしてきました。ゲームそれ自体は好きですが、今回に関してはそれ以上に大事なことがあるような気がしていて、なかなか気が進みませんでした。

私も来年度からは3年生です。前々から繰り返し書いているように、私には、早い段階から卒論の準備を着々と進めていって、無理なく卒論を仕上げて無事に大学を卒業していこうというささやかな「野望」があります。 そのために今は様々な方面の文献を読み、自分が専門的に研究していきたいと思えるテーマを深く掘り下げていく時期だと思っていますが、今回のこの買い物は、そういった卒業までのスケジュール設計に支障をきたしてしまう危険性があるように思います。

もちろん、プライベートと両立させながら研究を進め優秀な論文を仕上げて卒業していった先輩は探せばいくらでもいることでしょう。しかし、彼らはそういった芸当のできる限られた「才能のある人間」であって、特にこれといった才能を持たない私が同じことを同じようにできると夢想するのは、あまりにも現実味がないように思います。私は、「凡人でも、その気になれば一部の有能な人間と同様の品質を維持した行動ができるだろう」などという浅ましい考えは、大学に入学する際に捨てました。

さらに、イマドキの(当然ながらこの「ポケモン」シリーズも、私は初代からプレイしています)ポケモンはオンライン環境の発達により、プレイヤー間での対戦が非常に充実しています。Wi-Fiによるオンライン対戦は「通信ケーブル」という概念そのものを消し去りましたし、ワイヤレスで世界の誰とでも手軽に通信対戦ができることは科学技術による恩恵であるといえるでしょう。

ただ、それゆえに、今の私にとっては困った問題を引き起こすツールとなってしまいます。それ程に手軽に通信対戦ができるようになるということは、私の空き時間の過ごし方の選択肢の一つに友人たちと対戦をして過ごすというものが組み込まれてしまいます。そうなってくると相対的に文献を読み進めたり自身の研究を進めていく時間が少なくなってくるでしょう。それは一日単位だとそれほど長くはないですが、それが累積していった場合、最終的なゴールに大きな違いが生じてしまうかもしれません。そう思うと、私は今はとてもこのゲームで遊べる状態にはないような気がしてきます。

しかし、今実際問題としてここに買ったばかりの3DSとポケモンXがあるわけで…これを何とかしないことには何の進展もありません。これが私一人で完結するゲームであれば、これをこっそりクローゼットの奥にでもしまってしまうところですが、そうできない理由がどうしてもあります。

先にも挙げているように、このゲームはそのシステム上、自分の進捗状況が他者の行動に一定数の影響を与えます。すなわち、対戦相手としての他者が、自身が対戦するにふさわしい段階にあるか否かが、このゲームの魅力の一つとなりうるということです。そのため他のプレイヤーは相手が「自分が対戦するにふさわしい」段階になるまでにありとあらゆる「援助」をしようとします。そして、その「援助」は、相手の意志を顧みるという段階を経ないことが多いように思います。

となれば、私は彼の「援助」を盛大に受けつつ、彼にとって「ふさわしい対戦相手」となるために、このゲームを攻略していかなければならない。そういったステージに立たされたことになります。


私はここまでの一連の流れに、土井隆義氏が「友だち地獄」と表現したようなものが見え隠れしているように思いました。実はこの土井隆義『友だち地獄 ─「空気を読む」世代のサバイバル』(2008年,ちくま新書)はまだ読んでいないので、本分に即して詳細に考察を加えることはできませんが、できれば春休み中にもう少し深く考えていきたいと思いました。


とりあえず、この3DSはしばらく放置することにします。 幸か不幸か、今回購入したこの3DSは使用中に突然電源が切れるなど、随所にいくつか異常が見られるので、しばらくはこれを理由に放置しようと思います。

2014年3月12日水曜日

友人の誕生日プレゼントを買いに行ってきました。

ご無沙汰しております、武藤です。

ここ数日、色々と予定が立て込んでいてなかなか更新できませんでした。元々毎日更新するつもりなどあまりなかったわけですが…長期休暇中はそれなりにまとまった時間もとれるので、今のうちに書きたいことをある程度書き尽くしてから新年度を迎えようと思う次第です。

それと、先ほどブログランキングというものにこのブログを登録してきました。別に人様に胸を張って見せられるほど高尚なことを書いているわけでもないですが、せっかくなら誰かに見てもらいたいとも思いますしね。それと、私の性格上、誰かが見ているという意識がないとどんどん内容が雑になっていくと思うので、そういった事態に陥らないようにするためにページビューを増やしていこうと思い立ちました。外からの視線があれば、私も多少は真面目に文章を書くようになるでしょう。どうせ書くならもっとしっかりといろんなことを考えて文章にしたいものです。

人気ブログランキングへ

↑おそらくこのリンクをクリックすればしかるべきページに転送され、私のブログのアクセス数が何かしらの方法に基いて数値化される仕組みになっていると思いますので、もしよろしければ一度クリックしていっていただけると幸いです。あまりみっともなく強要するのもなにやら気が引けるので、次回以降はこんなド真ん中ではなくてどこか目立たないところにこっそり置いておきます。気が向いたらで良いのでときどき触ってあげてください。


さて、ここ数日間は何かと友人と一緒に行動する機会が多くてなかなかハードな生活でした。とはいえ、別に何か激しい運動をしたというわけでもなく、いつものようにただカラオケで散々歌い明かしたり、友人の誕生日プレゼントを買うために新宿の街を徘徊したというくらいのことですが…現役で野球をしていた頃とは違ってもはや体力などほとんどないので、ただ歩くだけでも私にとっては重労働です。

ちなみに、厳正なる協議の結果、友人への私からのプレゼントはこれになりました。






Gakkenのアリの巣観察キットです。
今回誕生日を迎える友人の専攻は歴史学。そんな彼の研究の一助となればと思い、今回はこれを贈らせていただくことにしました。歴史学専攻の友人に生物学的な実験キットを送りつけた上に「今後の研究に役立てろ」とのたまう…我ながらメチャクチャな注文です。

このチョイスからも分かるかと思いますが、我々の間では誕生日には「贈られる本人がとても喜びそうにもないもの」を贈るという暗黙の了解があります。なぜかと言われるとその理由は単純で、そのほうが贈る側も贈られる側も面白いし、何よりネタとしても「オイシイ」からです。








ちなみに私の誕生日は12月で、先日私も同様の方法でお祝いされたわけですが、今年の私へのプレゼントはこの禍々しい大剣と手錠でした。
友人曰く、大剣は「武藤の厨二心を刺激するため」、手錠は「武藤による悪行をいち早く取り締まるため(私はこれまで、彼らに対して『悪行』と呼ばれる行為をした覚えはありません…)」という意味で選んだそうです。普段彼らが私のことをどのように見ているかがよく分かりました。

ちなみにこの大剣は実際に部屋から持ちだしてキャンパス内の広場でチャンバラごっこをするのに使いました。休日の夕方に行ったため、幸い警備の方々に不審な目で見られる程度のダメージで済みましたが、衆人環視の下、この大剣を背負って電車に乗っているのは短時間とはいえとても辛かったです。


そんなこんなで、私たちは日々こんなくだらないことをしながら過ごしています。おかげでスクールカースト的には最底辺に位置づけられている我々ですが、自業自得ですし今更仕方がないですね。

本当はこの辺りのことについて他にもっと書きたいことがありましたが、それについてはまた明日書くことにします。明日はもう少し真面目な話をしようと思います。

2014年3月8日土曜日

「雑記帳」を読み返してみる。

こんばんは、武藤です。

今日も全日フリーだったので、とてものんびりした一日を過ごしました。昨日と違って、今日に関しては本当にすることがなかったので部屋の大掃除をしていましたが、いざ始めてみるとこれがなかなかに面白く…ついつい凝ってしまい部屋中がとてもキレイになりました。





今日は、本棚の下半分の教科書や過去の講義のノートをファイルしたバインダー、ほとんど読まれることのなかった「学習指導要領」などを押し込んでいた棚を整理しましたが、その中から学部1年生のころにつけていた「雑記帳」を発見して、えも言われぬ気持ちになりました。

私は字が汚いため、手書きのノートの中身などはあまり人様に見せたくはない(講義ノートなどに書かれた文字ならばともかく、メモ書き程度のレベルになるともはや私にしか解読できません。暗号としてはそれなりに優秀な字体です)のですが、この雑記帳の中に綴られていた内容がなかなか面白かったので、今日はそれらをいくつか抜粋して紹介したいと思います。


2012年10月15日

・「荷物を置くこと」が「自分の座席を確保すること」になるとは思えない。
だから俺は、(講義中に隣の座席が -武藤註)空いていれば許可なく座るし、それに対していかなる反論も受け付けない。「あなたの」ためだけの座席じゃないですからね。

・「教室で質問をすることを禁止する風潮」はどこ由来のものかね?
きっと教育学の範囲。

2012年10月19日

・「大学」が「研究機関」であるならば、「AO入試」とか「スポーツ推セン(原文ママ)」とかの入試形態は「悪」でしかないね。
「研究者」(=大学生)には豊富な知識が求められるのに
この形式で入学する「研究者」は大体学もなく、基礎もなく、できることといえば
「趣味」のスポーツくらい。果たして彼らは「研究者」たりえるのかね。


ざっと読み返し見て面白かった日の雑記を書き写してみました。読んでみる限り、書いてある内容は日々のタスクやサークルのこと、学業面でいえば歴史学、言語学、教育学、社会学などに関する記述が多くを占めていました。
じっくりと読み進めてみると、当時の私は無い知恵を絞って色々なことを考えていたようですが、悲しいかなそこは「二流大学」の新入生。上記の引用部分もそうですが、考えていることの程度の低さときたら…我ながら残念極まりないです。

上記の引用部分からもわかるように、基本的にこの雑記帳には「感情論」しか綴られていません。その理由は単純で、当時の私はこの雑記帳の用途を「その時思ったことを殴り書きしてストックしておくためのもの」と定義していたからです。どうやら新入生の頃の「私」は曲がりなりにも自身の「研究」観を持っていて、そのために「私」はどのようなことをしなければならないのか、試行錯誤していたようですが、どうやらこの雑記帳の方法「だけ」では不十分であるような気がします。

まずもって足りないのは「根拠」です。どの雑記にも共通して言えますが、このノートに綴られている内容の大半が「事実関係を確認できない印象論」であるように思いました。
引用部分を例に取って見てみます。例えば、10月19日の「大学入試の形態」に関する雑記に書かれている、大体学もなく、基礎もなく、できることといえば「趣味」のスポーツくらい。」という一文などは、その論理の妥当性そのものに疑問があるように思います。

たまたま私の通う大学が「二流大学」であるために、その大学に推薦入試を利用して入学してくる学生の学力が低水準にあるという傾向は確かに見られるかもしれませんが、それを考えるにしてもサンプル数が著しく足りません。大方、当時の「私」は、たまたま初年次必修の講義に居合わせた「推薦組」の学びに対する姿勢を見てそう言っているだけでしょう。極小数のサンプルに見られる性質を、その集団に普遍的に見られる性質として考える「早まった一般化」は、典型的な非形式的誤謬の一例です。もしかしたら、「私」が出会った「推薦組」の学生たちがたまたまそうだっただけで、他の「推薦組」はとても勤勉かもしれませんし、仮に私の通う大学でそうだったとしても、他の大学の「推薦組」の学生たちはみな勤勉かも知れません。その意味で上記の文章には論理的妥当性がないように思います。


しかし、 私はこの「雑記帳」の内容がこれほどまでに論理的妥当性を欠いていたとしても、この記録が完全に無意味なものであったとは考えません。というか、途中で放置した挙句最近までなくしてしまっていたとはいえ、書いている当の本人は「大まじめに」やっていたわけで…それらすべてに私自身が「そんなことしたって無駄だったんだよ。やーいバーカバーカ!」なんて言ってしまうのはあまりにもあんまりなような気が…しないでもないです。
そう思って、以下で少しこの雑記帳の存在意義を擁護(自己弁護?)してみたいと思いましたが、書いてみると思った以上に内容がまとまらないので、また別の機会に改めて考えてみたいと思います。

2014年3月7日金曜日

「『高度な数学』から学び始める」学習法に関する教育思想的分析。

こんばんは、武藤です。

今日は毎週金曜日のボランティア活動以外の予定がなく、とても暇な一日でした。こう暇を持て余しているとどうしてもだらけてしまうあたり、とても意識が低いですが…こればかりは長い時間をかけて形作られてきた性質なのでそう簡単には治りそうにありません。

そんなわけで、今日はずっとボーっとRSSなどを眺めていましたが、その中にまた面白い記事を見つけました。

・GIGAZINE:数学を学ぶには計算ドリルではなく「高度な数学」から学び始める方が効果的なわけとは?
http://gigazine.net/news/20140306-children-play-math/


この記事を読んで、私は最初はそんな方法が効果的であるわけがないと思いました。教育学的なタブー(であると私は勝手に考えています)であることを承知で、敢えて自らの経験に則して考えると、導入段階でいきなりレベルの高い問題を提示されようものなら、私ならば瞬く間に数学が嫌いになっていたでしょう。ただでさえ今でも数学に対してアレルギー反応が出そうな程に「数学嫌い」なのに、そんな教育を受けて成長していたら、私は数式を見ただけでアナフィラキシーショックを発症してしまう体質になってしまっていたかもしれませんね(もちろんそんな症例など過去をさかのぼってもあるわけがないでしょうが…)。

とても恥ずかしい話であまり明らかにしたくはないですが、私はこれまで数学という学問を一度たりとも満足に理解できたことがありません。私の記憶が正しければ、小学2年「さんすう」の段階で、私の数学的能力の発達にはすでに「遅滞」が見られていたのではないかとと思います。正式な検査は受けていないので憶測の域を出ませんが、こと数学という分野に関しては、私は間違いなく「アンダーアチーバー」だったと言えるでしょう。きっと「10歳の壁」も10歳児時点では越えていなかったと思います。

そんな私の経験を振り返って考えてみると、私は最初はそんな方法は効果的ではないのでは…と思いましたが、熟読してみるとまた少し考えが変わりました。すなわち、ここで「高度な数学」と呼ばれているものは「難しい数学」と同義ではないということに着目してみると、また違った見え方になりました。

ここでいう「高度な数学」とは、「物事の根底を支える概念として高度な数学的要素があるもの」であって、問題の難易度などは関係がないそうです。引用元のサイトでは、その「高度な数学」の例としてパズルやLEGOブロックを挙げています。つまり、パズルなどを用いた「遊び」を通じて「高度な数学」に触れさせることで、効果的に数学を学ぶことができるということだそうです。


引用元の文章を読む限り、この考え方はデューイの考えに似たようなものであると思いました。最近、随分前に読み始めて放置していたJ.Dewey,松野安男訳『民主主義と教育(上)』(1975年,岩波文庫)を読んでいるのでそう思えるだけかもしれませんが、この実際的な行為を通じて教育を行おうとする考えが、デューイの言う「経験主義」に近いように感じられました。

デューイは、『民主主義と教育(上)』第5章「準備、開発、形式陶冶」の中で、「滑車を引っ張る体操」と「ゲーム、スポーツ」という二つの例をもって「画一的な教育」と「一般的な教育」の差異を説明しています(Dewey,松野訳 1975 (上):111)。すなわち、デューイは「滑車を引っ張る体操」は、一定の動きを機械的に反復することに終始するために、その行為を通じて得た能力を実際に利用できる範囲は「限定的」になってしまう一方で、「ゲーム」や「スポーツ」といった行為は、「行動の焦点の不断の配置換えが行われ」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)るという特性によって、被教育者に「対象の中に生じた変化に対応するために活動の焦点を移動させた新たな組み合わせを敏速に作ることの練習」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)という行動を要求するため、その行為を通じて得る能力の利用範囲は前者よりも広くなると考えます。


今回取り上げた話も、これと類似の考え方であるように私には感じられました。つまり、数学的パズルやLEGOブロックを用いた「ゲーム」を通じて「数学的思考力(適切な語彙を思いつかないので、ここでは暫定的にそう呼称します)」という能力を身につけることで、その「数学的思考力」の利用範囲は大きく広がり、様々なものに応用可能な「一般的な」能力として形成される。ということだと思いました。ちなみに、私がここで用いている「一般的」という語はデューイが設定した「幅広く、柔軟だということ」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)という定義に依拠しています。

これは、現代の教育現場でよく見られる段階的教授(ヘルバルト派による「五段階教授法」)的な考えとは真っ向から対立する考え方に思えました。「五段階教授法」に即して考えるならば、まずは基礎となる部分を形成する段階、すなわちラインが設定した「予備」の段階からはじめなければなりませんが、この方法ではその段階を経ることなく、高度な段階から学習を始めている点に特徴が見られると思いました。


・参考文献
Dewey,J『民主主義と教育(上)』(松野安男訳,岩波文庫,1975年).

2014年3月6日木曜日

「『○○』とは何か」。

こんばんは、武藤です。

今日も今日とてサークルの仕事に忙殺され、あまり自分の時間を確保できませんでした。「これで最後だから」と思いながら淡々と目の前にあるタスクを処理しているつもりですが、やはり根本的に「やりたくない」と思っているということもあって、思うように進みません。このままだと本当に一週間単位の時間を要しそうな勢いですが、根気強く続けていきたいと思います。




それはそうと、追い出しコンパ関係の仕事の一環として、先ほどこのようなアスキーアート(以下AA)を作成したのですが、発想が貧困な私にしてはいいアイデアを思いついたものだと思いました。
このAAは、卒業生に配布する小冊子の中の「歴史」という項目の表紙に利用するために作成しました。元はもっと違うことを言っているのですが、今回はこのキャラクターのフキダシ内を「『歴史』とは何か」を説明しているものに差し替えました。ちなみに、フキダシ内の説明はWikipediaの該当ページを切り貼りしたものです。


この作業をしていて、私はこういった「『○○』とは何か」という問いに答えるのは思いのほか難しいと改めて思いました。特に、この例のように包括的な概念に対してこの問いを立てると、簡単に答えることはとてもできなくなるような気がします。

もちろん、ただ答えるだけなら簡単でしょう。各々が思っていることを素朴に述べれば、その人なりの「定義」にはなると思います。この「歴史」を例に取ればわかりますが、「現在という一地点に至るまでにこの世界において積み重ねられてきたもの」といったように、今その場で「定義」らしきものを作ること自体は誰しも容易にできます。ちなみにこの定義も私が今とっさに考えたものです。
しかし、この定義は質的に不十分で、「本当に『普遍妥当性』を持つものであると言えるだろうか」という疑問が残ります。その意味で、この問いに対して「設定した定義に『普遍妥当性』を持たせること」という条件を付した場合、同様の方法を用いて定義付けができるかどうかについて考えると、それはとても難しいことであるように思います。

今は「歴史」を例に取りましたが、ここでいう「歴史」を「教育」と置き換えた場合にも同じことが言えそうです。

先の記事でこれと類似のことを述べたときに利用した『教育学 ヒューマニティーズ』(2009年,岩波書店)がまだ机上にあったので、再度広田照幸氏の文章を引用すると、教育という行為が持つ

「われわれはみな、生徒・学生として教育を受けてきた経験がある。だから、自分の経験を踏まえると、誰でも教育についてなにがしかの見解をしゃべることができるような気になることができる」 (広田 2009:1)

という性質のために、「『教育』とは何か」といった問いに対する妥当な定義を考えた場合、かなりの確率で「『教育とはかくあるべき』といった希望や願望」(広田 2009:6)がその定義の中に含まれている可能性があるように思います。すなわち、自らの経験に則して自らの見解を述べることができるからこそ、我々はしばしば、自らの経験の中にある問題点に対する改善点が含まれた定義を導いてしまうのではないでしょうか。

さらにここから、「教育」において「普遍妥当性を持つ」といえる定義とはどのようなものかという問いが生じることになりそうですが、それを考えることがすなわち「教育学」であるのではないかと私は思います。しかし、ここでさらに「普遍妥当性」とはどのようなものか、何をもって「普遍妥当性」というべきかという問いも生じることになり、そうなるといよいよもって私には「『教育』とは何か」という問いがわからなくなってきます…。
何かまとまりに欠けますが今回はこの辺で終わります。また読みなおして加筆修正が必要なところは随時追記していきます。


参考文献
・広田照幸(2009)『教育学 ヒューマニティーズ』(岩波書店).

2014年3月5日水曜日

「研究ノート」がなかなかいい感じ。

こんばんは、武藤です。

昨日から始めている「研究ノート」が、今のところなかなかいい感じの手応えです。どのように読書をすれば効果的なのかということについてはかねてから考えてきましたが、やはり、読んだ本の内容をしっかり身につけるには身体を動かす必要があるということを実感しました。

今までは気になったところや参考になった部分に付箋を貼ったりすることでなんとか記憶に留めようとしていましたが、付箋だけ貼ってあとはそのまま放置で忘れ去られていくという悪循環がよく起こっていました。結局、その時印象に残ったということだけを記録していても意味がなくて、それを何度も参照しなければ効果的とはいえないということだと思います。これはまた別個の例だと思いますが、反復することが重要だということはエビングハウスの「忘却曲線」理論でも明らかにされているところですね。

今日一日「研究ノート」を使ってみて感じたメリットの一つは、これが手元にあることで、その時印象的だった部分や参考になりそうな部分などをそのノートに書き込んで記録することができるという点でした。しかも書籍からの引用だけではなくて、自らの言葉によって内容を再構成する機会も「研究ノート」は与えてくれるので、自分が内容を理解しているかどうかがわかりやすくなったと思います。

さらに、色々な方のノートを参考にした結果、このノートは性質上「毎日開くもの」となったので、これが更に効果的に作用すると思います。毎日、一定のタイミングで復習ができるので、これまでのように一度得た知識を失ってしまう危険性がグッと下がったように思います。

とりあえず、今のところはこの形を維持しながらもう少し記録を続けていこうと思います。

2014年3月4日火曜日

「研究ノート」をつけてみよう。

こんばんは、武藤です。

一昨日から続けているサークル関係の仕事も、(私が役職の仕事として担当している分は)今日で概ね終わりました。今日は久しぶりに大学へ行き、完成したDVDを所定の棚に置き、昨日の内に選別しておいた夏合宿の記録写真を現像してきました。あとは明日以降にこれらをフォトアルバムに入れてDVDと同じ場所に置いてくれば夏合宿関連の作業は終わりです。

実際はもう少し現像しなければならない画像やDVD化しなければならない映像が残っていますが、残りの部分はもう来年度の「記録」さんに仕事ごと引き継いでしまおうかなと思っています。もちろん、私も別に可愛い後輩が困っている様が見たいわけではないので発行作業は私も手伝いますが、これからこの役職に就く後輩にはこの役職がどういったものかを早い段階で知ってもらいたいので、アドバイスをしながら後輩自身の手で発行作業をしてもらおうと思っています。「これはOJT(=On the Job Training)の一環だ!」とでも言えば聞こえは良さそうですが、実際は仕事を体裁良く押し付けているだけですね。しかし、前々から書いているように、私としてもこれ以上このサークルでワーカホリック化するつもりなど始めから全くないので、この度は無い知恵を絞ってこの場合の「最適解」はどのようなものか探ってみた次第です。


閑話休題…。長期休暇中は学生課が空き教室の使用時間を制限しているという都合もあり、今日のサークル活動は17時で打ち切りになりました。しかし、せっかく久しぶりに大学に来たのにこんな早い時間に部屋に戻るのもなんとなく気が引けたので、今日は久しぶりに大学の自習スペースを利用して勉強をしてきました。

ここだけの話、私の通っている大学はこの辺りの設備が貧弱です。図書館は早々と閉室してしまうし、図書館棟に設けてある自習スペースも設備的にはあまり良くありません。自習スペースの机などは、普通に字を書いているだけで隣の座席とこちらの座席を区切っているセパレータがギシギシと嫌な音を立てたりするのでここで自習する際はiPodなどのデジタルオーディオ類か耳栓が必須装備となっています。
いつもは学生の多い時間帯に入ろうものならこのギシギシ音ですぐに退室したくなってしまいますが、今日は長期休暇中ということもあり学生もほとんどいなかったので(それはそれで問題であるような気もしますが…)じっくり集中して取り組むことが出来ました。


ちなみに、実は今、私は友人の勧めもあり独学で英語を勉強しているのですが、数ヶ月前にその勉強を始めるにあたって、新しく大学ノートを5冊セットで買いました。

 


そして、今日、そのノートがまだ4冊ほど自室の机の上で未使用のまま放置してあることに気が付いてしまいました。これが何を意味するかは至って簡単です。ノートを買うだけ買って、実際はほとんど勉強していなかったということです。

さすがにこれでは良くないと思って、今日は英語の勉強を再開すべく大学の自習スペースに籠もってきたわけですが、今から再開したところでこれだけのノートを使いきるのにはまだまだ時間がかかりそうです。
別にそんなに急いで使いきろうと思わなくてもいいとは思いますが、貧乏性な私にとっては「使おうと思って買ったものが使われていない」というこの現状を見ると、非常にモヤモヤした気持ちになってしまいます。そして、なんとかしてこのノートを有効に使わねばと考えた結果、今日から「研究ノート」をつけることにしました。

むしろ、「大学生のクセに今まで研究ノートの一つもつけていなかったのか」と言われると返す言葉もありませんが…来年度からは私もいよいよ学部3年。大学生活も後半戦に差し掛かる直前にして、私の頭の中にもそろそろ「卒業論文」という四文字がちらつき始めてきたので、4年になって焦ることのないよう今のうちからしっかり考えて準備していこうと思い立った次第です。

とはいえ、今までやっていなかったことを急にやろうと思っても難しいものです。研究ノートなど今まで書いたこともないし他の人のノートを見せてもらったこともないので、あまりイメージが固まっていませんでした。とりあえず、自室に戻ってきてからすぐにインターネットの情報を頼りにしながら新しいノートにプロトタイプ的なテンプレートを作ってみましたが、今のところこの形でしっかりやっていけるかどうかはまだかなり不透明です。
一応、今日の分と明日の分の準備は済ませたので、あとは実際にやってみながら適宜修正などしていければいいなと思います。また、私の研究ノートの作成例などについては、現行の方法がそれなりに洗練されてきたなと思えるようになってから、改めてまとめていきたいと思います。

2014年3月3日月曜日

ジュンク堂書店吉祥寺店に行ってきました。

こんばんは、武藤です。

今日も昨日に引き続き、サークル関係の仕事をしています。
昨日の時点で大量の時間を要していたエンコード作業ですが、この作業を正攻法でゴリゴリと時間をかけて終わらせたので、これにてDVDの作成作業は概ね終了しました。正直なところ、エンコード作業それ自体は自動で進んでいくので、作業中は私の出る幕はありません。昨日はこのエンコードの手法を確立するまでの間PCに張り付いて挙動を確認していたためその場を離れることはできませんでしたが、方法が確立してしまった今日は、作業をPCにまかせて私は別のことをしていました。

喜ぶべきことだとは思いますが、大学に入学してからのこの2年間、私は長期休暇中に暇を持て余した経験があまりありません。長期休暇中でも、東京にいる間は大体何かしらの遊びの予定が定期的に入ったり、そういったものがない場合でもサークルの合宿に参加したりしていたので、予定に関しては事欠かない生活でした。
もっとも、来年度から「隠居」する身である私にとってはもうすでに合宿も縁遠いものになっているわけですが、それでも友人との「企画」は休暇中も定期的にあります。最近で言えば、2月19日の「慰安旅行企画会議 in新宿(含二次会)」や、2月28日の「東急世田谷線沿線散歩」などが、私が「企画」と呼んでいる会合ですが、これが新年度までにあと数回行われそうです。

しかし、こういった「リア充」的な生活を続けていると、どうしても「一人の時間」が欲しくなるのはきっと私だけではないと思います。やはり私も人間ですので、他人と長いこと顔を合わせているとイラッとすることもありますし、考えたくもないことを考えさせられることもあります。
そんなとき私はその場を離れて一人で行動したくなることがあり、イライラしていたり友達付き合いに嫌気が差したときなどは実際にそうしていることがあります。(昨年度の後期、メンタルヘルス的に最も危なかった時期にそれを実行して一人で講義を受けたりしていたら、お節介な友人が面白おかしく茶化してきたので、もう大学内ではなるべくそういった行動を取らないことにしました。来年度はもっと賢くストレス・コーピングをしていきたいと思います。)

そんな欲求がピークに達したので、今日はDVD作成をPCにお任せして一人で吉祥寺まで遊びに行ってきました。吉祥寺は私が今住んでいるところからも比較的手軽にアクセスできるので、「遊びには行きたいけど遊ぶ時間はそれほどない…」というときなどによく遊びに行っています。今日は、欲しい本が何冊かあったので「ジュンク堂書店 吉祥寺店」に行ってきました。

私は都内の大型書店ではジュンク堂書店が一番好きでよく通っているんですが、普段は池袋にある池袋本店ばかり利用しています。そのため吉祥寺店の方には数えるほどしか足を運んだことがなく、今日は物見遊山的な意味も込めて行ってみました。
しかし、なんというか…売り場面積がそれほど大きくないことも影響しているのか、池袋本店ほど居心地がいいとは思えませんでした。私も一応教育学を学ぶ者の端くれなので大型書店に行った際は教育学関連の書籍が並ぶ棚の前で長い時間を過ごしたりもしていますが、今回はそれほど読んでみたいと思った本に巡りあうことができず、すぐその場を離れてしまいました。たくさん本をおいてあればそれでいいというものではないでしょうが、吉祥寺店は特に教科教育に関するガイドブック的な書籍を重点的に揃えている印象で、学際的な文献などは非常に少ないという印象を受けました。そのため、現状としてあまりそういった分野に興味を見いだせていない私には、この売場はあまり魅力的には見えませんでした。

とりあえず、今日は前々から読みたいと思いつつもまだ読んでいなかった宮台真司『増補 サブカルチャー神話解体 ─少女・マンガ・音楽・性の変容の現在』(2007年,ちくま文庫)を買ってきました。

しかし、まだ手を付けていない本がたくさんあるので、読み始める前にまずはそれらを消化していく必要がありそうです。また暇を見つけて少しづつ読んでいこうと思います。

2014年3月2日日曜日

残った仕事を終わらせて、気分よくサークルを辞めよう。

こんばんは、武藤です。

今日は一日の大半を旧サークルでの残務処理に費やすことになってしまいました。今日一日を使ってずっと作業をしていましたが、未だに一朝一夕では終わらなさそうな量の仕事が残っています。おそらくいつものようにダラダラとやっていると、あと数日くらいは軽くかかってしまいそうです。

大半のサークルがそうであるように、私が今年度まで所属していた某ボランティア団体にも「役職」というものがあります。今では世代交代も完了し、私の同期生たちがさまざまな要職に就き、来年度に向けての体制が確立しましたが、聞くところによると、来年度もまた人数不足から役職を兼任するサークル員が多数出たそうで、サークル運営は今年度よりもさらに厳しくなりそうです。しかし、その点はきっと次期チーフが上手いことやってくれることでしょう。それはもはや私の関知するところではありません。そもそもこの次期チーフが気に入らないことがこのサークルを辞める一つのきっかけになったわけだし…

そんなこんなで、来年度から私は「役職なし」の幽霊部員になるわけですが、それでも今年度まではしっかりと役職に就いていて、その仕事を完了させないことにはおちおち「幽霊化」できそうもないので、まとまった時間の取れるこの時期に一気に終わらせてしまおうと考えました。

ちなみに、今年度私は一般的に「副チーフ」と呼ばれるそこそこ重要なポジションにいました。主な仕事は新入生・2年生の連携強化および活動呼びかけや、サークル運営上の方針決定に関するアドバイスなど多岐にわたる…ように見えますが、実際は副チーフとしての仕事などほとんどありませんでした。その辺に関して文句がないわけではないですが、もはや過ぎたことなので敢えて多くは語りません。それよりも私の主な仕事といえば、「記録」という役職に関するものが多かったように思います。

この役職は、主にサークルで所有している撮影機材の管理と、撮影したもの(静止画・動画)をすぐにアクセスできる媒体にしてサークル員に共有するために設けられているもので、私は今年度は先述の「副チーフ」と「記録」という役職を兼任していました。こちらの仕事は特性上、何かしらの行事がある度に仕事が増えてくるので、ちょっと放置しているとすぐ仕事が溜まります。そして、その仕事を今年度の後期から丸投げし続けていた結果、今になってこのような惨状を招いている…というわけです。

率直に言わせていただきますと、この程度の残務処理にまさかこれほど時間がかかるとは夢にも思っていませんでした…。今日は主に夏合宿でのボランティアの内容を記録した動画ファイルをDVDにする作業をしていましたが、これがなかなかにクセモノで、昼過ぎから作業を始めているのにも関わらず未だ終わりが見えません。

私はただの文系学生なので、PCの技術に関してはそれほど自信がありません。もちろん、これまでインターネットというものに親しんでいた経験から、ブログサービスの使い方やオンラインゲームなどの操作方法などといった、「オタク」的な技術ならば多少は持っていますが、今回の仕事に関して言えばそれらのスキルは全くもって使い物になりません。そのためまずは仕事をするためのスキルを学ぶところから始めなければならず、そのせいで余計に時間がかかっています。

今は一応、おおまかなプロセスを理解して実際にアプリケーションを動かしているところですが、これにまた非常に長い時間がかかっていて作業が思うように進みません。



こんな感じで、いわゆる「エンコード」と呼ばれる作業と、エンコードされた動画ファイルをDVDプレイヤーで再生可能な形式(.isoファイル)に変換してDVDに記録する作業を同時に行っていますが、画像を見るとわかりますように、このエンコードという作業に非常に多くの時間がかかっていて、全く効率的とはいえません。

しかし、いくら非効率的とはいえ、ここまでの作業の結果、時間さえかければできることは間違いなさそうなので、あとはPCと私の根比べとなりそうです。一応、今使っているPCはそこそこの性能があるので、今使っているこのメイン機には、久しぶりに思いっきり働いてもらうことにします。

願わくば、 明日はなるべく早くDVDの作成作業を終わらせて、景気良く遊びに出たいものですね。今は二冊ほど欲しい本があるので、明日は久しぶりに一人だけで悠々と書店を巡りたいです。

2014年3月1日土曜日

大学生にとって「読書」は必要か。

こんばんは、武藤です。

私は、「gReader」というRSSリーダを利用して主にネット上での最新ニュースを収集しているのですが、最近、大型匿名掲示板「2ちゃんねる」では「大学生の読書」に関する話題がホットなようです。私が購読しているRSSの多くはいわゆる「まとめブログ」で、2ちゃんねるの話題などを大まかに網羅してあるので、(情報の真偽についてはほとんど信用していませんが)話題のトピックを知るために積極的に利用しています。

・VIPPERな俺:大学生の4割が読書時間「ゼロ」 平均26.9分wwww 本読まないで大学生とか無理だろ
http://blog.livedoor.jp/news23vip/archives/4632351.html

・ライフハックちゃんねる弐式:本を読まなくなった「大学生」は批判されるべきか?
http://lifehack2ch.livedoor.biz/archives/51492285.html


このように、ここ数日の間に、類似の記事が立て続けに公開されていました。特に「VIPPERな俺」にまとめられていた記事は、なかなか衝撃的な見出しから始まっていて深く印象に残りました。

私自身、それほど読書をしている方ではありませんが、 4割の大学生が読書を「全くしない」と回答したということに非常に驚きました。確かに、私の周りの友人達を見ても、日常的に読書をしていそうに見える者はほとんどいませんが…それはいわゆる「類友」的な何かの影響だと思っていましたし、他の大学の学生はみんな日常的に読書をしていると勝手に思っていました。

また、特性上、一定の思想に基いた(「偏った」と言い換えても良いでしょう)編集がなされる(そのため、まとめブログという媒体は信用性に欠けると私は思います)まとめブログですが、「ライフハックちゃんねる弐式」のまとめを見る限り、「情報資源としての有用性/利便性」という観点に基いた議論が中心を占めているように思いました。具体的には、「あらゆる情報に素早くアクセスできるインターネット上の情報のほうが便利である」派と「インターネット上にある情報だけでは不十分なため、書籍という媒体にある情報にもアクセスする必要がある」派が意見を交換しているように見えました。

私個人としては後者の意見に賛成ですが、私自身が情報技術の発達による恩恵を受けている部分が少なからずあることは否めません。CiNii Article(http://ci.nii.ac.jp/)などのデータベースがその例として挙げられると思います。特定のテーマについて自ら先行研究などを調べて発表するような授業もここまでいくつか履修しましたが、そういった授業においてはCiNii Articleにある先行研究などが非常に便利だったことが今でも印象に残っています。
勿論、その手の先行研究は本来的には紙媒体で存在するものなので、実際に紀要なり機関誌なりを参照することでも利用できますが…やはり欲しい情報へアクセスする「速さ」は、オンラインのデータベースのほうに軍配が上がるように思いました。

とはいえ、それ以外の情報についてはどうかといえば、全てが全て「信用できる」ものではないとも思います。もちろん、その点に関しては書籍などの媒体でも同様のことが言えそうですが、オンライン上の情報に関しては「誰でもアクセスでき、誰でも情報を発信できる」という特性にそのデメリットを見出すことができると思います。このブログもそうですが、インターネットという媒体の特徴の一つは、その気になれば私のような「素人」であっても一定の情報を発信することができる点にあります。そのような「素人」が発信する情報の中には、必ずしも十分に有用性・正当性を備えているとは言いがたいものも一定数存在すると思います。

特に教育学という分野は、広田照幸氏が『教育学 ヒューマニティーズ』(2009年,岩波書店)という本で最初に述べているように

「われわれはみな、生徒・学生として教育を受けてきた経験がある。だから、自分の経験を踏まえると、誰でも教育についてなにがしかの見解をしゃべることができるような気になることができる」 (広田 2009:1)

という特徴があるので、こと教育学に関するインターネット上の情報については、「素人」の発信している情報ほど「アヤシい」気さえしてきます…。そういった「真偽の定かでない情報」を鵜呑みにして「知ったつもり」になることは、とても危険なことであるように私には思えます。これがいわゆる「ネットde真実」というものでしょうか。

もちろん、先に述べているように、書籍に記録されている情報が必ずしも有用であるという保証も同様にないと思います。いわゆる「悪書」などはこの世の中には掃いて捨てるほどあるでしょうし、「良書」とされているものが必ずしも絶対的に「正しい」情報を提示してくれているわけでもないでしょう。
結局のところ、そういった情報を取捨選択し、各自が必要とする情報を選び取っていくスキル、すなわち「メディアリテラシー」が必要であるということはどちらの媒体を参照する場合でも同じことだと思いますが、個人的には、この能力自体はインターネット上の情報を参照する際に特に重要になってくると思います。

以上のようなことから、私はインターネット上にある情報のだけではなく書籍などの媒体から得る情報も必要で、その意味で、大学生にとって読書という行為は絶対に欠くことのできない営みであると考えます。

しかしながら、別に読書をする動機そのものは、そう固く考える必要もないのかなとも思います。実際、竹内洋氏によると、かつての旧帝国大学の学生ですら、「定番の書物は読んでいなければならない」(竹内 2003:66)という考えを持っていたそうですし、読書をする動機については、案外不純なものでいいんじゃないかと思います。多分、当時の学生たちの中には「せめてこのくらい読んでおかないとカッコ悪いよなー…」くらいの気持ちで読書をしていた層だっているのではないでしょうか。もちろん、今それを明らかにすることはできませんが…。

何か論点がズレてしまったようにも思いますが、とりあえず現状、私はこんな風に考えています。他に何か加筆修正すべき内容を思い出したら、また随時更新していきます。


参考文献
・竹内洋(2003)『教養主義の没落 変わりゆくエリート学生文化』(中公新書).
・広田照幸(2009)『教育学 ヒューマニティーズ』(岩波書店).

2014年2月28日金曜日

お散歩をしてきました。

こんばんは、武藤です。

ここ数日、また友人との遊びなどにまとまった時間を費やしていて更新が滞りました。
一昨日の午後に、友人と「東急世田谷線沿線散歩」と題した企画をし、三軒茶屋駅から下高井戸駅方面に向かって、特に何をするでもなく、4時間半ほど遊び歩きました。

Wikipediaによると、下高井戸駅~三軒茶屋駅の直線距離は約5km。普通に歩けばこれほどの時間はかからないですが、ただ歩くだけも面白くないと、小道に入って迷ってみたり、目についた古道具屋に入ってみたり、道中にある松陰神社で小一時間学生らしいとりとめのないお願いごとをしてみたりと、なかなか充実した旅になりました。私は特にこれといって鉄道が好きだというわけではないですが、このあたりの路線は普段の通学では使わず縁がない路線なので、とても新鮮な気持ちで楽しめました。


その後は、いつもの様に私の部屋に集まり2次会の流れに。先日の更新で部屋の掃除をしたことを書きましたが、掃除の理由の一つはこれにありました。「お前らどうせ俺の部屋に集まるんだろう」という予想は安易に出来たので、先回りして徹底的に掃除しておいた次第です。



2次会では、久しぶりにたこ焼きを焼きました。しかし、思ったより材料を買い込み過ぎて、大量のたこ焼きができてしまい、友人が帰ってからも余った食材をひとり黙々と消費して、原状復帰を果たしたのがつい先程の事でした。正直、もうしばらくたこ焼きは見たくないです。


しかし、今回買ったワインが思いの外美味しかったのが収穫ですね。普段あまりワインなどは飲まない(買えるだけのお金がない)ので、大事に味わいつつ楽しみたいと思います。

2014年2月25日火曜日

「『読書嫌い』のための読書術」があればいいのに。

こんばんは、武藤です。

今日は久しぶりに部屋の掃除をしました。思えば後期末のレポート地獄のさなかに「気分転換」と称した大掃除をして以来、帰省などを挟んで長らくしていなかったなと反省。

本棚の外に置きっぱなしだった本をしまい、今年度の授業で使用した教科書でもう読み終わったものや使わなくなったものは段ボールに入れてベッドの下に入れ、本棚周りも随分すっきりしました。

あまり知性の感じられない本棚ですが、そこはご愛嬌ということでどうか一つ…。整理整頓したら思いの外スッキリしてしまって少しさみしくもあります。
とりあえず、今日は本棚と水回りを全力で掃除して力尽きたので、明後日以降にこの本棚の中をもう少ししっかり整頓したいと思います。現状、読み終わったけどまだ参照する可能性のあるものと未読のものとが入り交じっているのでそのあたりをしっかり分けておきたいと思います。


それはさておき、最近あまり読書が捗りません。いやむしろ私の場合は捗っていないことのほうが多いですが、ここ最近は精彩を欠いている感が否めないです。なんというか、活字を目で追っているだけというか、そんな感じです。
そう思って、随分前に読了して本棚の肥やしになっていた永江朗『不良のための読書術』(ちくま文庫,2000年)を引っ張りだしてパラパラと読んでいましたが…なんだか余計にわからなくなりました。

永江氏は面白い本に出会うために「不良」になって、「不良」的に読書をしていく必要性を説いていますが、この「不良」がどうにも私には馴染みづらいものがあり、どうしたものかと頭を抱えてしまいます。
永江氏は『不良のための読書術』の中で、「ゴダール式読書法」というものを提案していますが、それにしたって、「この本面白くないなー。じゃあ50ページだけ読んでハイ終わり。」というのはなかなか貧乏学生には難しいことだなぁと思ったりします。もちろん金銭面でもそうですし、私の場合は特に読書の「目的」がある意味ではっきりしているからこそ、どうしても読みきってしまいたい。でも面白く無いから進まない…そんな感じです。

プロフィール欄にも書いているように、私は元々さほど「読書好き」というわけでもなくて、読書する「目的」はなにかと聞かれれば「教養のため」としか言えないのですが、この「不良」的な読書術はそういった目的で読書をする人たちには向いていないように感じられました。
特に「本を閉じてから大切なこと」(pp.234-258.)という章で書かれていることの多くは、やっぱりあまり同意できません。それは多分、私の本を読む目的が永江氏の考える目的と合致しないからだと思います。まぁ、こういった「『マジメなよいこ』的読書ではいけない!」というのがこの本の主旨なんだと思うんですが、私はどうにもその内容にあまり馴染むことができませんでした。というだけの話でした。


参考文献
・永江朗(2000)『不良のための読書術』(ちくま文庫).

2014年2月24日月曜日

アイヒマンの気持ちになるですよ。

タイトルは、とあるソーシャルゲームに登場するキャラクターのセリフを改変したものです。ソーシャルゲームは息抜き程度の軽い気持ちでできるので、最近は友人たちと一緒にのんびり遊んでいます。ただこのゲームは「遊びじゃない」人たちがたくさんいて、軽い気持ちで始めて「遊びじゃなくなってしまう」人が続出することでも有名なので、個人的にはあまりオススメはしないです。節度を守って割りきって遊べる人じゃないと困った事態を引き起こすことにつながります。ちなみに私はこのキャラクターがそれなりに「お気に入り」です。

こんばんは、武藤です。

昨日はある場所で実用英語技能検定(通称:英検)の試験監督のアルバイトをしていました。
日当は内緒ですが多くもなく少なくもないほどほどの報酬がもらえるので、現在絶賛貧乏生活中の私にとっては貴重な収入源です。

ここだけの話、私は大学生活でほとんど「アルバイト」というものをしたことがありません。一応、某個別指導塾で時間講師として働いていた時期はありますが、およそ塾講師とは思えない労働と終わらない研修、給料もいつまでたっても支払われないなど、たくさんの問題に悩まされてすぐにやめてしまいました。そろそろ大学受験も終わりに近づき、来年度から大学生となる方も多いと思うので言わせてもらいますが、塾講師という職業ははっきり言って「儲かりません」。時給の額面の高さに惑わされないでください。
もう一度繰り返します。塾講師は「儲かりません」。間違っても学生のする仕事ではありません。もっと真っ当な環境で真っ当に稼げて真っ当な経験ができるアルバイトは星の数ほどあると思います。自らの大学生活の大半を仕事に捧げたいとお考えなら話は別ですが、少しでも大学で「学びたい」と思うのであればするべきではない職業だと思います。

それはさておき、試験監督の仕事ですが、今回はいつもと違う業務を任されました。いつもは試験会場で注意事項を説明したり不正行為が行われていないか監視する仕事をしますが、今回は受検生控室から試験会場までの誘導の担当でした。

大まかな業務は、面接室前で待機している受験生の数を確認、少なくなってきたら控室で待機している受検生を呼び、会場まで案内して適宜面接室に振り分けていくというもの。慣れてくるとわりと片手間ででき、「どこにどう受験生を振り分ければ効率的か/どう振り分ければ受検生の待ち時間が少なくなるか」を考えながら淡々と受検生を振り分けていくその姿は、不適切かもしれませんがまさしくアドルフ・アイヒマンのようでした。

アドルフ・アイヒマンといえば、アメリカの哲学者ハンナ・アーレントが「凡庸な悪」と表現したことでも有名な「小役人」の代表的存在ですね。「悪の権化」という言葉に代表されるように、人々は今まで悪人は絶大なカリスマ性をもった絶対的な存在だと考えていたのに、多くのユダヤ人を実質的に「殺した」アドルフ・アイヒマンという男の裁判を見ている限り、その法廷にいたのは、そのような「悪の権化」ではなくどこにでもいる「普通の役人」だった…、と言うのは有名な話ですね。

だからなんだと言うわけではないですが、そのとき私は「今の俺ってすごく『アイヒマン的』だなー」などと考えながら仕事をしていました。一緒に仕事をしていた某大学の学生さんも言っていましたが、おもしろいことに、仕事になれるとびっくりするほど「何も考えなくても良い」んですよ。試験会場と控室の間を往復するのでそれなりに動いたりしますが、だんだんこなれてくると本当にただの「受検生を誘導するマシーン」になれます。お世辞にも仕事ができるとは言いがたいこの私ですら、仕事中はずっと「終わってから何しようかなー」などと考える余裕があったほどです。

ちなみに、ハンナ・アーレントの思想に関しては仲正昌樹『今こそアーレントを読み直す』(講談社現代新書,2009年)が入門テキストになると思います。先のアイヒマン裁判の話などは政治的に非常にデリケートな問題だと思うのでこれ以上深入りすることは避けますが、この本は個人的には読みやすかったのでオススメです。私ももっと深く学んでみたいと考えているので、他にもっといい入門書などをご存知の方がいましたら是非ご教授くだされば幸いです。

2014年2月22日土曜日

「教育哲学」は難しい。

こんばんは、武藤です。

今日は久しぶりの全休でした。ここ数日は「大学生」的オーバーワークの連続で疲れていたので、ゆっくりと休息をとって体調を整えました。

一応、申し訳程度に豊泉清浩著『ヤスパース教育哲学序説 ボルノーからヤスパースへ:自己生成論の可能性』(2001年,川島書店)を読み進めましたが、やはりというか当然というか、理解度はそれほど良くありません。

今のところは「第1章 ボルノーの教育学の立場」まで読みましたが、「哲学的人間学」の教育学的位置づけについてほんの少し理解できたかどうか…というレベルです。
ちょっとこのままでは埒が明かないので、また明日からはこの本と平行する形で別な本を読んでみることにします。

実は、今回、このように様々な分野の文献を横断的に借りてきたのには、来年度あたりから自主的に考えていこうと思っている卒論のテーマについて、おおまかな設計図を今のうちから考えておくというねらいがありました。一応の考えとして、前々から漠然と高等教育に関するテーマを設定したいとは考えていましたが、その「高等教育」というテーマについて、「どのような方面からのアプローチを試みるのか」ということについて、まだ私自身のなかで明確化されていないのが現状です。

例えば高等教育に関するこれまでの諸理論について、教育思想の上から明らかにするならば、そのアプローチ方法は「教育哲学」的な捉え方だと思いますし、現代の高等教育機関に見られる「教育病理」的なものを解決するための方策について考えようと思えば、それは「教育社会学」的な捉え方になると思うんですよね。見ての通り、一介の学部生の考えなので正確ではないとは思いますが、これから卒論という集大成的なものに取り組んでいくためには、この点に関しては早いうちから決めていかなければならないなと、勝手ながら考えています。

このような問題をなるべく早期に解決するために、この春休みを通じて、様々な分野の文献を読み進められればいいなと思います。明日はちょっとした単発の仕事があるので読書をする時間はあまりとれなさそうですが、移動時間など暇を見つけて何かしらの文献を読み進めたいと思います。

2014年2月21日金曜日

48時間、戦えますか。

ブログタイトルは、あの有名な栄養ドリンク剤のコピーのパロディです。

こんばんは、武藤です。

ここ数日、少し投稿が滞っていましたがなんとか生きています。
この数日間の生活については、実に「大学生」らしい、そんな数日間でした。と、若干の皮肉を込めて総括したいと思います。

ブログにも書いた通り、2月18日は、サークルの4年生を送る飲み会を開催しました。「開催しました」と書くのには理由がありまして、実はこの飲み会をセッティングしたのは他でもない私でした。
この、いわゆる「幹事」という仕事を任されたのはこれが初めてのことですが、要所要所で「ポンコツ」っぷりを発揮しながらも、なんとかつつがなく終えることができたと思います。

また、出席された教授陣からもいろいろとお話を聴くことができたことは、私にとって非常に価値あることでした。様々な観点から考えても、この点について私から話せることはあまりありませんが、非常に貴重な体験をさせていただくことができました。

飲み会の後は、サークルでは恒例となっている二次会にそのまま参加してきました。
会場は大学近くのカラオケで、毎回二次会は徹夜でカラオケをすることになっています。お世辞にも歌唱力が高いとは言いがたい私ですが、カラオケで歌うことそれ自体は好きな方なので、ほどほどに空気を読みつつ翌朝まで歌い続けました。
さすがに疲れきっていたので、解散してすぐに人もまばらな早朝の電車に乗って部屋に戻り、一時の休息を取りました。

本来であればここで泥のように眠り、深夜遅くに起きだしてくるのがいつもの私ですが、この日はそうも言っていられない事情がありました。実は、その日(2月19日)は友人と会って、この春休みの予定などを決めようと前々から決めていました。

カラオケを終えて部屋についたのが早朝7時15分。集合は13時に新宿駅。準備や移動を考慮すると正味4時間程度しか休めません。正直時間通りに起きれる自信はありませんでしたが、予め頼んでおいた友人のモーニングコールなどのおかげで何とか集合時間には間に合いました。

その後、この春休みの旅行や企画の予定も無事決まり、ようやく解散かと思いきや、なぜか今度は友人宅で二次会的な焼き肉パーティーが深夜からスタート。


タイムセールで安くなっていた牛肉を1.5kgほど買い込み、男子大学生4人が狂ったように肉を焼き続けるという、「いかにも」な宴が深夜4時頃まで続きました。我ながらよく頑張ったと思います。

その後は10時頃に目覚め、雪解け水で最高にぬかるんだグラウンドでキャッチボールを少ししてから解散となりました。解散後、死んだように眠ったことは今更言うまでもないことかもしれませんね。


以上、そんな感じの数日間の生活でした。今日は毎週金曜日に行っている定例的なボランティア活動の直前まで寝ていて無事遅刻するというハプニングがあった程度でそれほどおもしろいことはなかったので割愛します。

この数日間、勉強らしい勉強もしていなければ読書もしていないので、明日あたりからまた少しづつやっていければいいなと思います。




明日からは、春休みが始まる直前に借りてきた本を読み進めていこうと思います。

今回の長期貸出しでは
・カール・ヤスパース著,福井一光訳『大学の理念』(1999年,理想社)
・M・トロウ著,喜多村和之訳『高度情報社会の大学 マスからユニバーサルへ』(2000年,玉川大学出版部)
・ホセ・オルテガ・イ・ガセット著,井上正訳『大学の使命』(1996年,玉川大学出版部)
・豊泉清浩著『ヤスパース教育哲学序説 ボルノーからヤスパースへ:自己生成論の可能性』(2001年,川島書店)
・ピエール・ブルデュー著,石崎春己・東松秀雄訳『ホモ・アカデミクス』(1997年,藤原書店)

の5冊を借りてきましたが、自己の不勉強も重なって、理解度・ペースともにあまり芳しいとは言えない状況です。
一応、『大学の理念』は後期の間に読破して、春休みが始まる前に『高度情報社会の大学』も半分ほど読了していましたが、 続く『ヤスパース教育哲学序説』であえなく撃沈、布団へ倒れこんでからは長らく置物となっていました。

とりあえず、明日からは『ヤスパース教育哲学序説』を読み進めることにしますが、どれほど読めてどれほど理解できるかは定かではありません。できるだけのことを頑張ります。

2014年2月17日月曜日

「サークル活動」について思うこと。

こんばんは、武藤です。

結局今日は一日の大半を移動に費やしました。そういえば、ここまでの投稿で明言していなかったことですが、私の出身地は北海道です。今日の北海道は午後からの猛吹雪で各交通機関に乱れがありました。もちろん今日私が乗ってきた飛行機も例外ではなく、滑走路を前にして1時間程度、離陸許可が出るまで待機していた結果、予定よりも遅い時間に東京に到着することとなりました。
代わりというわけではないですが、キャンセルによる空席ができ、ちょっと安いプランで飛ぶことができて移動費の節約につながったので、遅れに関してはもう気にしないことにします。

ただ、上空の気流も相当に乱れていたようで、機内でもらったコーヒーが読んでいた本にこぼれないように神経を使いすぎたせいで思ったよりも読書がはかどりませんでした。飛行機でiPod Classicで音楽を聴きながら読書をするといつもより読書がはかどるということに気づいて以来、飛行機での移動が楽しくなりましたが、今回はなんとなく消化不良な感は否めません。

一応、先日から読んでいる『グローバリゼーション、社会変動と大学』も機内でいくらか読み進めることができました。また、今日は空港までの電車内で苅谷剛彦『教育改革の幻想』(ちくま新書,2002年)も少し読み進めました。やはりハードカバーは取り回しが悪く、あまり移動中に読むのには適さないので、私はこういった新書やソフトカバーの本を常に1冊以上入れておくようにしています。まぁ、それは裏を返せば、未だに新書の中でも未読の文献があるということとほぼ同義なのですが…。1年の後期に他学部の教授に「入門書・新書は2年までに必要な分を読み終えなさい。」とのお言葉を頂きましたが、私にはどうにも耳の痛い話です。とりあえず一つの節目となるであろう卒論執筆に向けて、今から遅れを取り戻せるように頑張らなければならないですね。
今部屋の本棚を見てみたところ、購入したのにまだ手が付けられていない新書が4冊も出てきたので、これらも春休みの内に消化していくことができればいいなと思います。あれ、春休みなのに全然休めてないぞ。どうなってんだ。


「遅れ」と言えば…あまり自分の怠惰を人のせいにしてはいけないと思いますが、こうして今のような状況を招いている要因の一つは、間違いなくサークル活動だったと思います。
私は入学してすぐ、いわゆる「新歓コンパ」で言葉巧みに誘われて、あるボランティアサークルに入会しました。機密事項も幾つかあり、あまり多くのことは語れませんが、そのサークルは子どもを対象とした様々なボランティアを行っています。夏には地方まで遠征してサークル員が主体的にボランティアを企画実行したり、日常的にもボランティア活動をしたりしているなかなか真っ当な団体です。
昔から内向的であまり人と接することが得意ではない私でしたが、当時は教員を志望していたこともあり、(半ば実績欲しさに)積極的にボランティア活動に参加していました。その結果、いつの間にか毎週木曜日は「ボランティアの日」になるくらいの活動頻度になっていました。当時、「人数不足問題」が深刻化の様相を呈し始めていたサークル内で、私はコンスタントに活動をすることができる貴重な「スーパーサブ」的ポジションとして重宝されていたと自負しています。

そんなこんなで、大学生活の多くをボランティアに費やす日々がここまで2年間続いたのですが、その副作用として、現状の「遅れ」がもたらされたのかなと考えると、今になって若干の後悔を感じずにはいられません。実際、ボランティアはやっていて楽しいものではあるのですが、しばしば学生の身分には分不相応な要求を伴うものであったり、種類次第では数日間にわたって拘束されるものや多額の費用がかかるものもあったりなど、必ずしも楽しかったとは言い難い活動もいくつかありました。
「それだけの苦労を強いられて、果たして得るものはどれだけあっただろうか…」と思い、いろいろ考えた結果、今年度いっぱいでこのサークルを退会することにしました。同期のサークル員との不仲や先に挙げた人数不足による存続そのものの危機など、他の理由も多々ありますが、やはりこれが一番大きな理由です。

要するに武藤は…

武藤「これ以上このサークルにいたら、このサークルと一緒に自分まで共倒れしてしまう!来年サークルを運営していく同期の連中も気に入らねーし、こんな潰れかけのサークルにいつまでも付き合ってられるか!俺は降りさせてもらうぜ!」

と結論づけたわけです。なんというか…今すぐにでも密室空間で謎の変死を遂げそうな残念な口上になってしまいました。(参考:「かまいたちの夜」)

ともあれ、来年度からはもっと自分に必要な研究をしっかり行っていきたいと思ったので、この度、当時何かと便宜を図っていただいていた別なサークルへ移籍する運びとなりました。移籍先のサークルは、サークル内で決めた文献をみんなで議論を交えながら読み進めていく、いわゆる「読書会」のような活動をしているサークルです。かねてから上記のような「遅れ」を薄々気にしていた私にとってはちょうどうってつけの団体だったので、今年度の後期あたりから部外者の身ながら活動に参加させて頂いていましたが、来年度より正式にこのサークルの会員の一人になります。
(ちなみに、明日行われる飲み会はこのサークルの4年生を送る飲み会(通称:追いコン)です。このサークルで長い間活動していた先輩方はきっと多くの知識をお持ちだと思うので、色々ためになるお話が聴けることを密かに期待しています。)

しかし、このようにいくつかのサークルを渡り歩いてみて、改めてサークル活動は「程々に」するべきだということを再確認しました。研究に差し障るからといって何もしないのも(主に世間体として)いけないとは思いますが、学生生活を顧みずワーカホリックよろしく熱中しすぎるのは、いずれ自分の身を滅ぼすことにつながるんだなということを学びました。

この反省を踏まえて、来年度からは節度を保ったサークル活動をしながら、この2年間の「遅れ」を少しでも取り戻せるように頑張っていきたいと思います。

2014年2月16日日曜日

読書感想文のようなものと「今年度最も印象的だった授業」の話。

こんばんは、武藤です。

明日の夕方の飛行機で東京に戻ります。次に帰省するのは3月中旬頃です。
実家ではいろいろと誘惑が多すぎてあまり読書がはかどらないので、東京にいる間になるべく多くの本を読むようにしたいですね。とはいえ、帰京してすぐに教授との飲み会や友人たちとの旅行などがあり、どこまで読み進められるのかは定かではありませんが…。暇を見つけて少しずつ読んでいくようにします。

さて、昨日の記事でも書いたとおり、今日から広田照幸・吉田文他編著『グローバリゼーション、社会変動と大学』(岩波書店,2012年)を読み進めています。不勉強ゆえの遅読が災いしてまだ読了には至っていませんが、現段階でひとまず吉田文「グローバリゼーションと大学」まで読み終わりました。

この文章の中で印象的だったのは、現代の大学を「商品」として見る視点でした。例えばオーストラリアとアラブ首長国連邦の間では、オーストラリアの先端的な大学教育を導入して「Knowledge Village」を構築したいアラブ首長国連邦と、産業としての大学を輸出したいオーストラリアの思惑が一致して、いわゆるwin-winの関係を形成することが出来た一方で、IMF(国際通貨基金)とラテンアメリカ諸国の関係はあまり健全な状態であるとは言えない状態だったことが述べられていました。

また、大学という教育産業の例として、アメリカにおける「フェニックス大学」と「ウベルニシタス21グローバル」 という2つの教育機関が紹介されていました。特に興味深かったのはフェニックス大学の教育システムでした。
吉田文氏によると、フェニックス大学の授業は高度にマニュアル化されており、教員はそのマニュアルに沿った授業を展開すればよいことになっているそうです。そのため常勤である必要がなく、全教員の90%以上が非常勤であるということでした。また授業は主に夜間に行われ、学生はアメリカ全土に200あるキャンパスで授業を受けられる点が特徴的でした。このような形態からフェニックス大学は「マック大学」と揶揄されているそうですが、その一方で「マクドナルド化」しているがゆえに、教育水準が一定レベルで保証されているという点に利点があると述べられていました。

「講義内容のマニュアル化」といえば…そういえば今年度の後期に履修したある講義が「悪い意味で」マニュアル化していたなとこの部分を読みながら思い返しました。その授業は基本的な講義形式のものでしたが、その内容が担当の教授の書いた教科書に基づいて構成されているもので、教授が話していることの大半は教科書の該当ページを参照していればわかるという、イマドキの大学では珍しい授業でした。
個人的にはこのような形式の講義には、昭和の大学のようなセピア色な風景を見出さずにはいられませんでした。大講堂みたいな教室に何百人もの学生が集まって、教壇で教授が用意したノートを読み上げ、学生はそれを一心不乱にノートに書き取る…といったような、そんなイメージです。上記の表現はかなり失礼だったかも知れませんが、なにせ私はその時代を「知らない」世代なので、当時の大学教育を連想せよと言われてもこんな感じの荒唐無稽な風景しか描けません。

しかし、その詳細は知らずとも、最近は文部科学省が大学生の勉強離れを憂いて万策を尽くしているということくらいは、その辺のしがない一学部生である私ですら知っていることです。その一連の施策の中で授業の内容などについての指示はなかったのか、はたまたあの教授が頑なに文部科学省の指示を無視し続けていたのか…。真相は闇の中ですが、ともかく大学に入学してあのような形式の講義を受けたのは初めてだったので、むしろ新鮮な気持ちで講義を受けることができました。
ただ、その教授が他の講義でも同様の手法で授業を進めているならば、その教授の授業を来年度以降に履修することをちょっと考えたいですね…。今回は初めて体感する講義だったが故に逆に新鮮さを感じることが出来ましたが、二度目以降は間違いなく「退屈」との戦いになりそうです。

そんなことを考えながら読み進めました。他にも重要な点は幾つもありましたが、それらについては機会があったら後日また書きたいと思います。
とりあえず、今日のところはこの辺で失礼します。


参考文献
・吉田文(2012)「1 グローバリゼーションと大学」広田照幸・吉田文他編著『グローバリゼーション、社会変動と大学』(岩波書店)pp.15-42.

2014年2月15日土曜日

自堕落な生活をやめよう。

こんばんは、武藤です。

この春休みは2月上旬頃から実家に帰省しています。本当は大学(主にサークル)関連での雑事がいろいろ残っていましたが、友人の結婚式など大事な用事が地元で開かれるということもあり、そういった仕事などは全部丸投げして帰ってきました。
おそらくサークルの方では今頃、いわゆる「世代交代」の時期で大変なことになっていることでしょう。まぁ、私にはもうあまり関係のないことですが…。(この辺りの確執については機会があれば書いていくことにします)

とはいえ、せっかく自由に使える時間が大量にあるのにもかかわらず、 地元ではついつい遊んでしまってしまい、あまり有意義な生活を送れないまま、そろそろ帰京の日が近づいてしまいました。
一応、長期休暇に入る前には大学図書館から何冊か本を長期貸出制度を利用して借りてくるのですが、今のところ長期休暇中に借りた本すべてを読み終えることは出来ていません。それどころか、今回に関しては先の結婚式や旧友との交流などに時間を割いてしまい、今までで1冊もまともに読めていないのが現状です。

さすがに非常に良くないと思ったので、明日と明後日の2日間を使って、なんとか「学生」に戻れるように頑張ってみたいと思います。
(ちなみにですが、私は「大生徒(石原千秋による造語)」と「大学生」と「学生」という言葉は、現実の社会でそれぞれ明確に使いわけられるべきであると考えています。「大生徒」という言葉はそもそも造語で一般的ではないため実際に使われることは少ないですが、少なくとも「学生」と「大学生」という2つの言葉に関しては明確な使い分けが必要ではないかなと思います。この辺りは東京の自室に戻って文献を参照できるようになってから詳しく書きたいと思いますが、今は「学生」>「大学生」>「大生徒」の順でレベルが高いと考えてくだされば結構かと思います。)

というわけなので、明日からは、随分前に購入して手を付けていなかった広田照幸・吉田文他編著『シリーズ大学1 グローバリゼーション、社会変動と大学』(岩波書店,2012)を少しずつ読み進めていこうと思います。大学での生活も早3年目に入ろうとしているこの時期にこんな状態では非常に恥ずかしいのですが、まだまだ私は自分が専攻したい分野のことについてほとんど何も知りません。
新3年生を迎えるまでに、なるべくたくさんの知識を身につける必要がありますね。とはいえ、上記の通り私は非常に誘惑に弱い人間なので、正直なところ、これから新年度までにそういった類の努力をどれほど出来るかという点については私自身にもわからないところではありますが…。

2014年2月14日金曜日

今日からブログを始めてみます。

 いろんなことをしっかり考えて文章を書く場が必要だと思い、今日からブログを始めることにしました。

初めましての人は初めまして。そうでない人はお久しぶりです。
ブラック武藤と申します。これからできる限りの頻度で(毎日更新とは言いません。絶対にそんな芸当できっこないので。)ブログを更新していきたいと思います。

しかし、わりとその場の思いつきで決めた部分があって、まだどういうことを書いていくかといった細部までは詰め切れていません。が、(仮)とはいえ「研究日誌」 と銘打った以上は、自分が色々調べてわかったことを忘備録的に書き留めたり、自分の意見を主張したり、他の方々と意見交換などをする場として使っていきたいなと考えています。あとは日々の生活のことや、時々愚痴など吐きつつ、タイトルにとらわれず自由に書いていければと思います。


さて、これから外部に向けて何かを書いていくにあたり、まずは現時点での大雑把なプロフィールなどを公開しておきたいと思います。このブログの今後の方向性を決定づけるためにも必要なことだと思ったので、興味が無いかも知れませんがしばしお付き合い頂ければと思います。

・名前:ブラック武藤
 まだいろんな面で自信がないダメな大学生なので、本名の公開だけは勘弁していただきたく思います。 一応、「限りなく本名に近いHNである」とだけ言っておきます。
言いたいことをズバッと言えるだけの自信がついたらいずれ本名でいろいろ言っていきたいとは思いますが…。そうなるにはまだまだ時間がかかりそうなのでもうしばらくお待ちください。

・ 職業:大学2年(2014.02.14現在)
東京都のとある私立大学で大学生をしています。別段高学歴なわけでもなくいわゆる「ボーダー・フリー」でもない、ごく一般的な総合大学です。よく「二流大学」と呼ばれます(厳しい人たちにはしばしば「誰でも入れる三流大学/底辺大学だ」などとなじられ、うだつの上がらない日々を過ごしていますが…彼らにかかればあのハーバード大学ですら「ボーダー・フリー」に分類されてしまうので、そんな彼らの言うことはあまり信用していません)。
一応、現段階で大体の単位を揃えてほぼ卒業要件は満たしたので、新3年生となる来年度あたりからは本格的に「研究」というものをしてみたいなと思っています。誰が見ても立派な「卒業論文」を書き上げて卒業することが現時点での私のささやかな「野望」の一つです。他にも「野望」はありますが、それはまた追々書いていきます。それらはまだちょっと恥ずかしくて公言する勇気がありません。

・専攻分野:教育学(教育社会学)
学部生の分際で「専攻している」などとほざくのはおこがましいことかも知れませんが、書類の上では教育学を専攻している「ことになってます」。とはいえ、教育学自体がかなり広い分野であるということもあって、時々自分の専攻が分からなくなることもあります。
今一番興味があるのは教育学の中でも特に「高等教育論」と呼ばれる分野で、普段は主に「大学」や「専門学校」、「大学院」などといった一連の教育機関のことについて考えています。それについてはまた追々書いていく機会があると思うので、今は大雑把な説明に留めます。
このブログでもこういったテーマに沿って、(なるべくアカデミックに)色々と書いていければいいかなと思っています。

少々長くなったので、続きはまた次回以降の更新で書いていきます。 他に特筆すべき事項があれば後日追記していきます。願わくば、この計画が「三日坊主」に終わらないことを信じて、今回はこの辺で筆を置きたいと思います。
それでは、以後よろしくお願いします。