2014年3月7日金曜日

「『高度な数学』から学び始める」学習法に関する教育思想的分析。

こんばんは、武藤です。

今日は毎週金曜日のボランティア活動以外の予定がなく、とても暇な一日でした。こう暇を持て余しているとどうしてもだらけてしまうあたり、とても意識が低いですが…こればかりは長い時間をかけて形作られてきた性質なのでそう簡単には治りそうにありません。

そんなわけで、今日はずっとボーっとRSSなどを眺めていましたが、その中にまた面白い記事を見つけました。

・GIGAZINE:数学を学ぶには計算ドリルではなく「高度な数学」から学び始める方が効果的なわけとは?
http://gigazine.net/news/20140306-children-play-math/


この記事を読んで、私は最初はそんな方法が効果的であるわけがないと思いました。教育学的なタブー(であると私は勝手に考えています)であることを承知で、敢えて自らの経験に則して考えると、導入段階でいきなりレベルの高い問題を提示されようものなら、私ならば瞬く間に数学が嫌いになっていたでしょう。ただでさえ今でも数学に対してアレルギー反応が出そうな程に「数学嫌い」なのに、そんな教育を受けて成長していたら、私は数式を見ただけでアナフィラキシーショックを発症してしまう体質になってしまっていたかもしれませんね(もちろんそんな症例など過去をさかのぼってもあるわけがないでしょうが…)。

とても恥ずかしい話であまり明らかにしたくはないですが、私はこれまで数学という学問を一度たりとも満足に理解できたことがありません。私の記憶が正しければ、小学2年「さんすう」の段階で、私の数学的能力の発達にはすでに「遅滞」が見られていたのではないかとと思います。正式な検査は受けていないので憶測の域を出ませんが、こと数学という分野に関しては、私は間違いなく「アンダーアチーバー」だったと言えるでしょう。きっと「10歳の壁」も10歳児時点では越えていなかったと思います。

そんな私の経験を振り返って考えてみると、私は最初はそんな方法は効果的ではないのでは…と思いましたが、熟読してみるとまた少し考えが変わりました。すなわち、ここで「高度な数学」と呼ばれているものは「難しい数学」と同義ではないということに着目してみると、また違った見え方になりました。

ここでいう「高度な数学」とは、「物事の根底を支える概念として高度な数学的要素があるもの」であって、問題の難易度などは関係がないそうです。引用元のサイトでは、その「高度な数学」の例としてパズルやLEGOブロックを挙げています。つまり、パズルなどを用いた「遊び」を通じて「高度な数学」に触れさせることで、効果的に数学を学ぶことができるということだそうです。


引用元の文章を読む限り、この考え方はデューイの考えに似たようなものであると思いました。最近、随分前に読み始めて放置していたJ.Dewey,松野安男訳『民主主義と教育(上)』(1975年,岩波文庫)を読んでいるのでそう思えるだけかもしれませんが、この実際的な行為を通じて教育を行おうとする考えが、デューイの言う「経験主義」に近いように感じられました。

デューイは、『民主主義と教育(上)』第5章「準備、開発、形式陶冶」の中で、「滑車を引っ張る体操」と「ゲーム、スポーツ」という二つの例をもって「画一的な教育」と「一般的な教育」の差異を説明しています(Dewey,松野訳 1975 (上):111)。すなわち、デューイは「滑車を引っ張る体操」は、一定の動きを機械的に反復することに終始するために、その行為を通じて得た能力を実際に利用できる範囲は「限定的」になってしまう一方で、「ゲーム」や「スポーツ」といった行為は、「行動の焦点の不断の配置換えが行われ」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)るという特性によって、被教育者に「対象の中に生じた変化に対応するために活動の焦点を移動させた新たな組み合わせを敏速に作ることの練習」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)という行動を要求するため、その行為を通じて得る能力の利用範囲は前者よりも広くなると考えます。


今回取り上げた話も、これと類似の考え方であるように私には感じられました。つまり、数学的パズルやLEGOブロックを用いた「ゲーム」を通じて「数学的思考力(適切な語彙を思いつかないので、ここでは暫定的にそう呼称します)」という能力を身につけることで、その「数学的思考力」の利用範囲は大きく広がり、様々なものに応用可能な「一般的な」能力として形成される。ということだと思いました。ちなみに、私がここで用いている「一般的」という語はデューイが設定した「幅広く、柔軟だということ」(Dewey,松野訳 1975 (上):113)という定義に依拠しています。

これは、現代の教育現場でよく見られる段階的教授(ヘルバルト派による「五段階教授法」)的な考えとは真っ向から対立する考え方に思えました。「五段階教授法」に即して考えるならば、まずは基礎となる部分を形成する段階、すなわちラインが設定した「予備」の段階からはじめなければなりませんが、この方法ではその段階を経ることなく、高度な段階から学習を始めている点に特徴が見られると思いました。


・参考文献
Dewey,J『民主主義と教育(上)』(松野安男訳,岩波文庫,1975年).

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