2014年3月6日木曜日

「『○○』とは何か」。

こんばんは、武藤です。

今日も今日とてサークルの仕事に忙殺され、あまり自分の時間を確保できませんでした。「これで最後だから」と思いながら淡々と目の前にあるタスクを処理しているつもりですが、やはり根本的に「やりたくない」と思っているということもあって、思うように進みません。このままだと本当に一週間単位の時間を要しそうな勢いですが、根気強く続けていきたいと思います。




それはそうと、追い出しコンパ関係の仕事の一環として、先ほどこのようなアスキーアート(以下AA)を作成したのですが、発想が貧困な私にしてはいいアイデアを思いついたものだと思いました。
このAAは、卒業生に配布する小冊子の中の「歴史」という項目の表紙に利用するために作成しました。元はもっと違うことを言っているのですが、今回はこのキャラクターのフキダシ内を「『歴史』とは何か」を説明しているものに差し替えました。ちなみに、フキダシ内の説明はWikipediaの該当ページを切り貼りしたものです。


この作業をしていて、私はこういった「『○○』とは何か」という問いに答えるのは思いのほか難しいと改めて思いました。特に、この例のように包括的な概念に対してこの問いを立てると、簡単に答えることはとてもできなくなるような気がします。

もちろん、ただ答えるだけなら簡単でしょう。各々が思っていることを素朴に述べれば、その人なりの「定義」にはなると思います。この「歴史」を例に取ればわかりますが、「現在という一地点に至るまでにこの世界において積み重ねられてきたもの」といったように、今その場で「定義」らしきものを作ること自体は誰しも容易にできます。ちなみにこの定義も私が今とっさに考えたものです。
しかし、この定義は質的に不十分で、「本当に『普遍妥当性』を持つものであると言えるだろうか」という疑問が残ります。その意味で、この問いに対して「設定した定義に『普遍妥当性』を持たせること」という条件を付した場合、同様の方法を用いて定義付けができるかどうかについて考えると、それはとても難しいことであるように思います。

今は「歴史」を例に取りましたが、ここでいう「歴史」を「教育」と置き換えた場合にも同じことが言えそうです。

先の記事でこれと類似のことを述べたときに利用した『教育学 ヒューマニティーズ』(2009年,岩波書店)がまだ机上にあったので、再度広田照幸氏の文章を引用すると、教育という行為が持つ

「われわれはみな、生徒・学生として教育を受けてきた経験がある。だから、自分の経験を踏まえると、誰でも教育についてなにがしかの見解をしゃべることができるような気になることができる」 (広田 2009:1)

という性質のために、「『教育』とは何か」といった問いに対する妥当な定義を考えた場合、かなりの確率で「『教育とはかくあるべき』といった希望や願望」(広田 2009:6)がその定義の中に含まれている可能性があるように思います。すなわち、自らの経験に則して自らの見解を述べることができるからこそ、我々はしばしば、自らの経験の中にある問題点に対する改善点が含まれた定義を導いてしまうのではないでしょうか。

さらにここから、「教育」において「普遍妥当性を持つ」といえる定義とはどのようなものかという問いが生じることになりそうですが、それを考えることがすなわち「教育学」であるのではないかと私は思います。しかし、ここでさらに「普遍妥当性」とはどのようなものか、何をもって「普遍妥当性」というべきかという問いも生じることになり、そうなるといよいよもって私には「『教育』とは何か」という問いがわからなくなってきます…。
何かまとまりに欠けますが今回はこの辺で終わります。また読みなおして加筆修正が必要なところは随時追記していきます。


参考文献
・広田照幸(2009)『教育学 ヒューマニティーズ』(岩波書店).

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